

貝原益軒(1630-1714)は長崎に5回にわたって旅行している。しかし、洋学解禁(1720)以前のことであり、長崎を経由して導入したのは主として中国の学問であった。新井白石(1657-1725)によるヨーロッパについての情報は「采覧異言」(1725)などで梅園にも大きく影響してはいるが、宣教師シドッティを尋問して得られたものである。やはり洋学の本格的な導入は前野良沢(1723-1803)、杉田玄白(1733-1817)らの解体新書刊行(1774)に始まると考えることができる。前野良沢の蘭学の師と言うべき人は、解体新書の序文を書いている通詞の吉雄耕牛(1724-1800)である。梅園が耕牛と親交を結んだことは、帰山録から読みとれる。長崎から帰った後に、耕牛は梅園に顕微鏡を送っている。耕牛がほぼ同年輩の梅園を高く評価していたことは間違いない。耕牛は単なる通詞(通訳)ではなく、医師であり学者である。
1778年の長崎についての記録の重要性を示すために、時間的関係をくどく記した。帰山録は和文であり、難解な「多賀書」や堅苦しい「丙午封事」とは違って気楽に読むことができる。本書は覚え書きであって、発表を意図した物ではない。したがって、天文学、地理学、医学、宗教、風俗その他いろいろなことが列記してある。梅園の意見が明記してあるものもあるし、聞いたことや手紙や碑文の記載に止めているものもある。ここでは、そのほんの一部を個人的興味から次に引用する。本書はこの変革期を理解するための重要な記録である。この本もぜひ読んでほしい。
創世記について、「始天よりアーダムと云が肉を取りて、エーハルとなれり。アーダムとは雄と云が如く、エーハルとは雌と云が如。」と書き、ラテン語について、「阿蘭陀の書、阿蘭陀語也といへども、往往ラテン語を雑へたるにより、ラテン語に通ぜざれば蛮書読むべからず。ラテン語は雅にして簡なり。故に通じ難し。我故を松村(翠崖:通詞)に問ふ。松村曰和語中に漢語を雑へ用ふるが如し。」と。自分の名前として「MJULA」と書いている。新井白石の著書を引用して、たとえば「西洋の人、日本をばヤアハンと云由、采覧異言に見えたり。」などと書いている。
医学についての記載はかなりあり、日本で記録されている最初の顕微鏡観察と思われるものとして、「顕微鏡にてうかがふに、人の髪はひらみ有り、獣毛はまるし。小児の髪は中一条すく。」と。天文、地理などの記載も多く、旅行中に麻田剛立から貰ったかなり長い手紙を書き写している。この中で剛立は月食を観察して地球の影から南極大陸の存在を証明しており、梅園は「是に於て西人をして美を天下にほしいままにせざらしむ。」と喜んでいる。地動説について「翠崖又曰。西洋百年来の説は日動くに非ず。地止まるに非ず。日よく止まり、日の外なるもの皆動ひて日を周る。」と記載しているが、梅園は理論的な考えから天動説を信じ続けたと思われる。
帰山録は上巻と下巻の2巻からなる。大正元年の梅園全集からのイメージをPDF化したものである。合わせて約1MBなので、ダウンロードにはあまり時間はかからないであろう。