血液循環

「動物の心臓ならびに血液の運動にかんする
解剖学的研究」

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献辞(省略)


同学への挨拶(省略)


緒言


心臓や動脈の運動、作用、機能を論ずるにあたって、他の人々がどのように記載し、一般に習慣として言われてきているか、を述べることは重要である。このようにして正しいことを確認し、誤っていることを解剖や多くの経験や正確な観察によって正しくすることができる。

今日まで解剖学者、医師および哲学者は、ガレノス(c.129-c.200)に従って、拍動と呼吸の目的は同じであるとしている。ただ、両者の違いは、拍動は動物的機能に依存し、呼吸は生命的機能に依存する、としている。目的とか運動とかなどの点で、両者は似ていると考えていた。したがって、最近ファブリチオ(1533-1617)が出版した「呼吸について」と同じように、心臓と動脈の拍動は血液を冷やすのに不充分なので、肺が心臓を取りまいて冷やしている、と主張している。心臓の収縮と拡張、心臓や動脈の運動について言われてきたことは、肺を念頭においている。

しかし、心臓の構造と運動は肺と異なり、動脈の運動も胸郭とは異なるので、他の目的や機能が生まれ、心臓の拍動、動脈の脈拍や目的は胸郭とは異なると考えられる。もしも仮に拍動が呼吸と同一の目的を持つとしたら、動脈は拡張期に外気を管腔に取り込み、収縮期には筋や皮膚にある孔から煤を排出させることになる。したがって、収縮と拡張の中間期には動脈内に空気が含まれ、時期に応じて空気、精気または煤が含まれることになる。このことはガレノスの次のような見解と矛盾する。彼は著書に、本来、動脈内には血液が含まれていると書いている。その中の実験や考察で、動脈内には血液以外のものは無く、精気も空気も無いと言っている。もしも大きな拍動で大量の空気が入り込み、拡張にさいして動脈が空気で一杯になるとしたら、拍動が大きいときに全身を水風呂または油風呂に浸すとすれば、必然的に拍動は小さくなるか、遅くなるかしなければならない。何となれば体を取り囲んでいる風呂の内容を通して空気が動脈内に入ることは、不可能でないとしてもひじょうに困難だからである。

同様にして、深部動脈や皮膚動脈のすべての動脈が同時に同じ速度で拡張するとしたら、どうしてあたかも1枚の膜を通過するのと同じように、思うとおりに自由に急速に、皮膚、筋、組織を経て空気が深部に入ることができるのであろうか。また胎児の動脈はどのようにして、母体や子宮壁を通して、空気を外部から血管に引き込むのだろうか。またアザラシ、クジラ、イルカなどのクジラ類やすべての深海魚類は、脈拍が速いときに、動脈の拡張と収縮にさいして測りしれない海水層を通して、どうして空気を取り込んだり排出したりしているのであろうか。かれらが海水中の空気を取り込み、煤を水中に排出しているとするのは、まるでおとぎ話である。

また動脈が収縮にさいして煤を内腔から筋や皮膚の孔を通して排出するとしたら、なぜ動脈内にあると言われている精気も同様に排出しないのだろうか。精気は煤よりも希薄ではないのだろうか。もしも肺の呼吸と同じように、動脈が収縮および拡張にさいして空気を摂取したり排出するとしたら、動脈を切開したときにそのようなことが起きるはずではなかろうか。気管切開にさいして、傷口から二つの相反した運動で空気の出入りの起きることは、よく知られている。しかし動脈を切断するとたちまち血液ははげしく間断なく噴出するが、空気は決して出入りしないことは、明白な事実である。

もし動脈の拍動が、あたかも肺が心臓にたいするように、体の各部分を冷やして風通しをよくするとするならば、動脈は生命精気で飽和した生命血液を心臓から体の各部分に送り出すと、一般に言われているのは何故だろうか。このようにしてのみ体の温熱は助成される。衰退した温熱はこれにより鼓舞され覚醒され、消耗した温熱は補充される。もし動脈を結紮すると、その部分はただちに硬直し冷却し蒼白に見えるだけでなく、ついに栄養も停止されるのは、何故だろうか。ガレノスによると、これは心臓から体の各部を経て送られる温熱が欠乏することによる。これによると動脈は体の各部を冷却し通風するのではなく、むしろ温熱を給付するものと推論されるのではなかろうか。その上にどうして、動脈拡張によって体各部分の加温のために心臓から精気が送り出され、同時に外部から冷却が誘致されるのだろうか。

また二、三の人々は動脈も心臓も肺もまったく同一の目的に働くものであると主張するにもかかわらず、心臓は精気を作る所であり、動脈は精気を貯蔵し輸送する所であるとしている。しかし、彼らはコロンボ(1516-1559)に反対して、肺が精気を作り貯蔵することを否定する。しかも彼らはガレノスに賛成しエラシストラトス(c.330BC-c.250BC)に反対して、動脈内には血液が入っていて、精気は入っていないとも主張している。これらの意見は相互に矛盾し相容れないもので、どれも疑わしい。動脈内には血液だけが含まれていることは、動脈の切断または傷害についてのガレノスの実験によってよって明らかに証明される。ガレノスが幾つかの場所で示したように、動脈を切断すると血液全部は半時間以内に出尽くすからである。ここでガレノスの実験とは次のようなものである。「もしも動脈を二カ所で結紮し、その間を縦に切開すると、血液だけしかないことを見いだすであろう」とガレノスは言っている。このようにして、彼は動脈に血液だけが入っていることを証明している。従って同様に、われわれも次のように推論してよいであろう。すなわち、(死体や動物について証明したように)同様に結紮し切開した静脈に含まれる血液と同じ血液を動脈中にみるならば、動脈は静脈と同じ血液を持ちそれ以外のものは持っていない、と結論できる。

ある人々は血液が精気性でありかつ動脈性であるとして上記の矛盾を避けようとし、動脈の任務は心臓から全身に血液を輸送することで、動脈は血液で満たされていることを暗黙のうちに認めている。しかし、精気性血液も血液に他ならない。静脈の中を流れていて精気がしみこんでいても、血液は血液であることを誰も否定しない。もしも動脈中の血液がより多くの精気を含んでいても、静脈血と同じように精気は血液から分離することはできないと考えられる。血液と精気は、(牛乳中の乳漿とバター、温湯中の熱と水、のように)一つの液体を形成して動脈を満たし、これを心臓から全身に配るために動脈が動く、すなわちこれが血液そのものであると考える。もしもこの動脈中の血液は動脈の拡張によって心臓から吸引されるとするならば、動脈は拡張によってこの血液によって満たされるものであって、かって主張されたように外界の空気によって満たされるのでないことになる。もしも収縮期になされるとしたら、動脈は収縮期に満たされるか、または満たされても容積が増えないという、不可能なことが実現することになるであろう。もしも拡張期に起きるとしたら、動脈は一時に同時に二つの正反対の目的、血液と空気の二つ、温熱と寒冷の二つを受け取ることになる。このようなことは容認できない。

もしさらに心臓と動脈の拡張が同時に起き、収縮もまた同時に起きると主張するとしたら、どちらも妥当でない。もしも緊密に結合する二つの物体が同時に拡張するとしたら、一方が他方から或物を吸引できるだろうか。もしも同時に収縮するとしたら、どうして一方が他方から或物を受け取ることでできるだろうか。その上、あるものが何か他の物体を自分の中に吸収することによって膨張するというようなことは、他から働きかけられたことを意味している。したがって、あらかじめ外部から強く圧縮されていたスポンジが自然の状態に戻るような場合を除いて、このように膨張することは不可能であろう。このような事態が動脈の場合に起こることは想像しがたい。動脈は袋または管のように充満されることによって拡張されるのであって、鞴のように自分で拡張し充満するのでないことは、容易かつ明白に証明しうることで、すでに明らかに指摘したと信じている。

それにも拘わらず、ガレノスの著書「動脈は血液を含む」のなかに述べられている実験には、次のような問題点がある。かれは動脈を露出し、長軸にそって切開する。ここに管状の糸巻または穴の通ってる中空の小管を差し込んで、血液もあふれることができず、傷口もまた管によって塞がれるようにした。こういう状態にあるかぎり動脈は拍動するだろう。だが動脈および小管に糸を巻き付けてこれを締め付け、動脈壁を堅く小管を結紮すると、結紮から先方の動脈は拍動しないと、かれは言っている。私はガレノスのこの実験を試みたことはなく、生体においてこの実験はよく行いうるとは考えない。なぜならば、動脈から血液がほとばしり出るからである。また小管は固くむすび締め付けないかぎり傷口を完全に閉ざすことはないであろう。血液は管からほとばしり、管から出ることは疑いもない。しかるにガレノスはこの実験によって、拍動力が心臓から動脈の管壁を通して伝達されること、動脈は拡張期に鞴のように拡張するからその拍動力によって充満されること、動脈は革の徳利のように充満されるので拡張するのでないこと、を立証しようとしたのである。

しかし、事実はまったく正反対である。動脈切断のときにも、動脈に傷をつけたときにも、同様に明らかに認められた。なぜならば、血液は動脈から激しく噴出する。その噴出の距離が大きくても小さくても、その噴出はいつも動脈の拡張期に起こり、決して収縮期には起きない。この事実から、動脈の拡張を起こす原因は血液の迫力であることは明らかである。何となれば、動脈は拡張しているときにこのように激しい勢いで血液を自身の力で噴出することはできないし、動脈の機能についての一般の説が正しいなら、傷から動脈の中へ空気を引き込むに違いないからである。

動脈壁の厚さから考えても、拍動力が動脈壁を通して心臓から伝達されるという推定が、われわれを誤らせることはないであろう。ある種の動物においては動脈と静脈の区別は全く無いし、脳、手などのような人体の末梢にある動脈の小枝では、動脈と静脈が全く同じような管壁を持っているので、両者を区別することは何人にも不可能であろう。動脈の切傷または膨張によって生ずる動脈瘤においても、一般に他の動脈と同じように拍動が見られるにも拘わらず、動脈の管壁を持たない。これは私だけの意見ではなく、博学なリオラン(1580-1657)はかれの本の第7巻で同じ意見を示している。

「駆ける」「怒る」「沐浴する」または何かで熱すると、呼吸が示すと同じ原因によって、ガレノスが言ったように、拍動は速くなり大きくなることを認めるからといって、拍動と呼吸の機能が同じであるとは誰も考えないであろう。私の実験から見いだされた事実はこのような見解に反するだけではなく、血液の過度の充満によって脈拍は大きくなるが、呼吸はかえって小さくなるからである。小児にあっては、脈拍数は多いにもかかわらず、呼吸数は往々にして少ない。同様に、恐怖、憂悶、不安や何かの発熱にさいして、脈は速く頻数になる。

これらまたはその他の同様な問題は、動脈の脈動やその機能について認められている見解に起きてくる。人々が心臓や拍動の機能について述べていることにも、これに劣らず多くの容易に解決できない困難が錯綜しているであろう。心臓は生命精気の源泉であり製造所であり、それによって体の各部分に生命を与えている、と一般に言われている。しかし、右心室は精気を送るのではなく、肺の栄養に関係しているだけである、とも一般に言われている。だから、(肺を持たない)魚類に右心室は無いと説明する。そして、心臓の右心室は肺のために存在すると主張する。

(1)両心室の構造はほとんど同一であり、繊維は同じ組立てを持ち、筋、弁、血管、心房などの構造も同様で、解剖してみると同じような黒みがかったもろい血液によって満たされているから、両心室の作用、機能、拍動が同じであるのに、それらの用途が違うと考えなければならないのだろうか。もしも右心室への入り口にある三尖弁は血液が大静脈へ逆流するのを防ぎ、肺動脈の開口部にある半月弁は血液の心室への逆流を防ぐために作られているとしたら、同じような状態にあるにも拘わらず、左心室の場合には、同様に血液の流出や逆流を防ぐ作用をするということを、否定しなければならないのだろうか。

(2)弁は大きさ、形、位置などすべての点で左心室と右心室とがほとんど同じなのに、何故に弁は左心室で精気の流入と逆流を防ぐためにあり、右心室では血液の流入と逆流に備えているのだろうか。同様な器官が一方では血液の運行を、他方では精気の運行を抑止するようにできているのは、他ではみられない。

(3)肺動脈と肺静脈のように、通路や管が大きさその他いくつかの点で互いに等しいのに、片方は肺に栄養を与えるような私的な任務であるのに、他は体のための全体的な任務を振り当てられるのだろうか。

(4)コロンボが言っているように、肺の栄養にそのように大量の血液が必要なことが本当とは思われないのではないか。肺動脈は総腸骨静脈よりはるかに太くなっている。

(5)肺がこのように近くにあり、こうも大きな血管を持ち、絶えず運動しているのであるから、何のために右心室の拍動が必要だろうか。また、肺に栄養を与えるだけのために、心臓にもう一つの心室を加えた理由は何たろうか。

左心室は精気を作るために肺および右心室から空気と血液を受け取り、精気性血液を大動脈に配分し、大動脈から煤を受け取って肺静脈を通して肺に送り、肺から精気を大動脈に送るとしたら、何が分離を行うのであろうか。精気と煤がどのような方法で互いに混合せずに各々の方向に流れて行くのであろうか。もし僧帽弁が煤の肺への流出を防がないとすれば、空気の流出をどのようにして制止するのであろうか。また半月弁は(これに続く心臓の拡張にさいして)精気が大動脈から逆流するのをどのようにして防止するのだろうか。精気性血液が弁によって通行を制止されないで、左心室から肺に肺静脈を通して送られるとはどのようにして主張できるだろうか。人々は空気が同じ血管(肺静脈)を経て肺から左心室に送られて来ると主張しているから、三尖弁は空気の流出にたいする障碍でなければならないと言うのであろう。神よ!どのようにして三尖弁は空気の流出を防止しながら、血液の流出は妨げないのだろうか。

動脈の管壁を持ち広く大きな血管である肺動脈に、肺自身のための唯一の用途(肺の栄養)だけが振り当てられ、辛うじて同じ大きさに過ぎない柔らかい静脈管壁をもつ肺静脈に三乃至四の多くの用途を用意されているのは、何故だろう。端的に言って、肺静脈を通して空気が肺から左心室に流れ込むと、かれらは言っている。同様にこの肺静脈を通して心臓から肺に煤が逆流し、また精気性血液の一部も肺を再活性化するために肺静脈を経て心臓から肺に送られる、と言っている。もしも、同一の管を通して、煤が心臓から(肺へ)、空気が(肺から)心臓へ送られると言うなら、ただ一つの血管ただ一つの通路を、反対方向の運動と反対の目的のために設けることであり、自然の常則ではない。このようなことは、いまだかってどこでも見られたことはない。

もしも人々が主張するように、煤または空気がこの通路を気管支を通るように行き交うとしたら、肺静脈を切開したときに煤も空気も見いださないのは何故だろうか。肺の中には残った空気があるのに、肺静脈は濃い血液で満たされていて、空気で満たされていないのは何故だろう。

ガレノスの実験を真似て、生きている犬の気管を切断し、鞴(ふいご)で肺を強くふくらませるとしよう。ふくらんだ肺を堅くしばるならば、胸郭をひらいたときに、肺にはその最外層まで入っているが、肺静脈にも左心室にも空気は少しも入っていないことを見いだすであろう。もしも生きている犬で心臓が肺から空気を引き込んだり肺が心臓に空気を与えるとしたら、それだけの成果が見られるはずである。解剖にさいして死体の肺へ空気を吹き込むとしても、肺静脈や左心室に空気が入って行くことは考えられない。それにも拘わらず、人々は肺静脈は肺から心臓へ空気を送るためのものであるという目的を重視している。そのため、たとえばファブリチオなどは、肺はこの血管の必要のために作られており、この血管は肺の本質的な構成部分であるとまで主張している。

しかし、私は強調する。「もし肺静脈が空気輸送のためのものだったら、なぜ静脈の性質を持っているのであろうか。」常につぶれずに開いているためには、むしろ管しかも気管支のように輪を備えた管が必要であり、空気の流通を液体が邪魔しないように血液の無い管の必要なことは、自然の理である。肺が病気におかされると、気管支は溜まっている粘液によって閉ざされたり狭くなったりして、呼吸にさいして笛音やラッセル音を発することから明らかである。

さらに、生命性の精気を作るのに二種の物質(血液と空気)が必要であるという前提のもとに、血液は心臓隔壁の隠れた孔を通って右心室から左心室に滲出し、空気は大きな血管すなわち肺静脈を通って肺から取り込まれるとし、血液の通過に適した多数の孔が心臓隔壁にあるとする見解はさらに信頼性がない。だが不思議なことにこのような孔は無く、検証することもできない。心臓の隔壁は、骨および腱を除くどのような組織よりも緻密であり堅固だからである。たとえ孔があるとしても、(左右の心室が同時に収縮・拡張するので)左心室が右心室から血液を取り込むことが可能であろうか。

左心室が孔を通して血液を右心室から吸い込むと考えないで、右心室が同じ孔を通して精気を左心室から吸い込む考えてはいけないであろうか。行き詰まりの目に見えない多孔性の組織を通して血液がはるかに容易に吸い込まれ、空気は広い入り口から取り込まれるというのは、たしかに奇怪で不合理と考えられる。肺静脈という広い通路があるにもかかわらず、血液の移行については、覆われていて目に見えず存在が明らかでない細小の孔を頼りにするかを、問いたい。実に不思議なことに、世人は、広い静脈性血管や粗く弛緩していて柔軟なスポンジ状の肺実質ではなく、厚く堅く緻密で固い隔壁を通ると考え、あるいはむしろそのように偽っていることである。さらに、もしも血液が隔壁の物質を通って流れあるいは心室から隔壁に吸入されうるとしたら、冠状静脈、冠状動脈、および隔壁の栄養のための枝は何のために必要なのだろうか。

とくに注目に値するのは次のことである。(すべてが粗く柔らかな)胎児において血液が卵円孔を通して大静脈から左心室に入り肺静脈に吸引されるのに、年を経て心臓隔壁が厚くなっている成人で血液が隔壁を自由にたやすく通過するということを、信ずることが出来るであろうか。

アンドレ・デュ・ローラン(-1609)は、ガレノスの書およびウーリエ(-1562)の経験に基づいて、膿胸にかかった人の胸腔から肺静脈に吸収された粘液および膿は、左心室を通り動脈を経て、下腹部の尿や糞とともに排泄されることを、立証し確言している。かれは事実をさらに確認するものとして、しばしば意識不明になったメランコリア(ウツ病)患者が濁った悪臭のある刺激性の尿を排泄したために、発作から免れた例をあげている。この患者はこの病気で死んで解剖された。尿中に排泄されたような物質は膀胱にも腎臓にも見られず、左心室と胸腔に大量に見いだされた。ローランはこのような発作の原因はこのような種類のものであると予言したと自慢した。何か異様な物質がこの経路を経て排泄されることを予想し予言していたのであるから、血液が同じ経路で肺から左心室に吸引されることを知るべきであった。これを知らず信じようとしなかったことは不思議である。

これまでの考察その他によって明らかなように、心臓と動脈の運動と機能についてこれまで言われてきている事実は、それらすべてについて精細に追求しようとする人にとって、不条理、不明瞭、不可能にさえ見える。これらの事柄を精密に追求して、心臓と動脈の運動を観察すること、人間だけでなく心臓をもつ動物について頻繁な動物実験や観察によって研究し真理を見分けること、は有用と思われる。


1.この本を書いた動機


他人の論文からではなく自分の観察によって、動物における心臓の運動と機能を解明しようとした。このためまず生体解剖(動物実験)を基礎とする観察を行い、興味を持った。しかし、これはあまりにも面倒であり、また絶えずあらゆる困難に満ちているいることを見いだした。フラカストロ(1483-1553)に従って、「心臓の運動はただ神のみが知る」とまで考えたほどであった。

何故かというと、何時、何処で拡張や収縮が起こっているかを識別することができなかったからである。多くの動物でこの運動は、まばたきのように、あるいは稲妻の閃光のように、迅速に目に映り、視界を消え去って行くほど速いものであった。今ここに収縮が見え、るかと思えば、別の場所で起きる。拡張も同じである。ある時には別々に区別できるかと思うと、たちまちに混じった運動を見るように思われた。そのために、心から当惑してしまった。結論として出し、他人に信頼してもらえそうなものは一つもなかった。アンドレ・デュ・ローランが「心臓の運動はあたかもアリストテレスの目の前で方向を変えるエウリポスの潮の干満のようなものである」といったことも、あえて驚くにたりなかった。

ついに、日夜、非常な綿密さと細心さをもって研究し、種々な生きた動物について多くの視察を行い、幾多の観察結果を集めることによって、迷路から脱出できただけでなく、心臓および動脈の運動とその目的を望み通りに知り得たという見解に達した。したがって、このことについての意見を友達に知らせるとともに、大学の慣習にしたがって解剖学の講義において講演することを恐れなくなった。

このことは一部の人々からは好感を勝ち得たが、他の人々にはあまり喜ばれなかった。その人々は私を誹謗して、すべての解剖学者の学説と信念を信じないのは私の罪であるとした。他の人々はこの事柄が研究する価値をもっていて将来は有用なことが判るであろうと確信し、そのためにより完全な説明を要求している。私の仕事に協力したいという友人の要請と、私の言うことを信用せず公然と私を陥れようとする人々の反感、の両方に動かされて、これらを出版することにした。このようにしてかれらのすべてが各自の判断をくださざるを得ないようになった。ファブリチオは動物の各組織の組成を精細に博識をもって特別の論文に記載したにも拘わらず、心臓について何も記載していないので、このことはますます好ましいことである。最後の理由として、もし学界が私の労作によって何らかの効用と利益をこの方面に発展させることができるなら、私が無為に一生を過ごしたのでないと言うことができるであろう。

このことは心臓の運動に関するかぎりたぶん今日でも通用するだろう。あるいは、この道筋が示されたので、少なくとも他の人々は一段と優れた天分の助けによって、一層よく研究する機会をつかむことになるであろう。



2.心臓の運動の本性


動物の胸郭を開き、心臓をじかに包んでいる心膜を切り開いてみよう。生きているあいだ心臓は一つの運動をし次には休止する。心臓には運動をする時期と停止する時期がある。とを、最初に観察することができる。

冷血動物の心臓、たとえばイモリ、ヘビ、カエル、カタツムリ、ウミザリガニ、ウミガニおよびすべての小さい魚類においては、このことはかなりはっきりしている。死が近づいて拍動が次第に緩慢となりほとんど消滅しようとするに至るまで引き続いて注意を払っているならば、イヌ、ブタの温血動物においてはこれらすべてがいっそう明瞭に起きるであろう。それから運動は次第に緩慢になり小さく稀になって、休止期の延長することを明らかに認めることができる。休止期においては死んだときと同じように、心臓は柔らかくふにゃふにゃとなり、消耗し、休んでいる状態になる。

運動と運動の完成される期間について次の三つの事柄がみられる。

1.心臓がまっすぐになること。心尖が持ち上げられる。したがって、この瞬間に心臓は胸壁を打つ。拍動を外部から触れることができる。

2.心臓はすべての場所で収縮すること。横軸方向にいくぶん多く収縮する。したがって、心臓は小さく、いくらか細長く、引き延ばされたようにみえる。ウナギの心臓を取り出して机または手の上にのせて見ると、このことが判る。小さい魚の心臓や冷血動物の円錐形または長めの心臓でさらに良くこのことが判る。

3.心臓を手にとってみると、運動をしているときに堅くなる。この堅さは緊張のときに見られるものである。たとえば指を動かしているときに前膊の筋は、握ってみると緊張しいくぶん堅さを増していることが認められる。

4.以上の他に、魚類や冷血動物たとえばカエルやヘビなどでは、心臓が運動しているときには白色を帯び、休止しているときは濃い赤色を呈することが判る。

以上の事実から、心臓の運動はある種の一般的な緊張、すなわち繊維の走行に一致する収縮とすべての意味における圧縮、からなっていることが判る。何となれば、心臓はその運動のたびに真っ直ぐになり活気づき縮小し堅くなるか。筋の収縮がその腱や繊維の走行に一致して起きるときの運動と同様である。筋は運動し作業するときに、活気を呈し緊張し、柔らかなものが堅くなり、充実し、太くなる。心臓もこれと同様である。

心臓が運動をすると、すべての方向に収縮して壁が厚くなり心室が縮小し、それによって内容物である血液を追い出すのである、と結論できる。このことは四番目の観察によって明らかである。すなわち、心臓は緊張にさいして内部に入れていた血液を押し出すから、色が褪せるのである。弛緩、休止にあたっては新しく血液が心室に入ってくる。そこで色づいて紫がかった赤色がふたたび心臓にあらわれてくる。ここでもし心室に達する傷を与えると、心臓の個々の運動、すなわち拍動ごとに、緊張の結果として内容物である血液が激しく噴出することを見ると、何人もこの事実に疑いを持つことはない。

心臓の緊張、胸壁への衝撃として外部から触れられる心尖の拍動、心壁の肥厚、心室の収縮による血液の排出、これらは一斉に同時に起きる。

事実は一般に承認されている結果とは明らかに反対である。心臓が胸壁に衝突して外から触れることのできる時期に、心臓の心室は拡大して血液で満たされるという一般の見解とは反対に、心臓は収縮するときに空になる。それゆえ、一般には弛緩と考えられている心臓の運動は実際は収縮である。同様に心臓の固有運動は弛緩ではなく収縮である。心臓は拡張期に堅くなるのではなく、収縮期に堅くなる。かくて心臓は収縮するときに運動し、活気づく。

ウェサリウスは葦を束ねて円錐形にして頂点を底に引っ張ると内腔が広がるという比喩を述べている。しかし、たとえウェサリウスの考えであっても、心臓は縦の繊維の方向にのみ運動し、側壁は円弧上に膨らみ、内腔は広がって、血液を受け取るという推測を、容認することはできない。なんとなれば心臓はその繊維のすべての方向に緊張し、かつ同時に収縮し、厚くなり、心室の内腔は広がるよりも、壁の実質が肥大することは疑いもないからである。心尖から基底へ走る繊維が緊張して心尖が基底に引っ張られるとしても、心臓の側壁は弧状に湾曲せず、反対に真っ直ぐになるはずである。あたかも一般に筋繊維が収縮し長さを短縮するときに見られるように、弧状に走る繊維は収縮する時に横に広がり太くなる。なお付け加えたいのは、心臓の運動にさいして心室はその方向を変え、側壁が厚くなるだけでなく、大きい動物の心室の繊維は縦走するもの以外にアリストテレスが神経と呼んだ環状のものの存在することである。これが同時に収縮する結果として、あたかも巻ひもでするように驚くほど巧妙にすべての方向から全内腔を圧縮し、中の血液をますます強い力で排出する。

同様に、心臓が拡張またはある種の固有運動によって血液を心室に吸引するとふつう信じられているのは、正しくない。なぜなら、心臓は作用し緊張するさいに血液を追い出し、弛緩して虚脱するさいに血液を受け入れるからである。これについては以下に順を追って述べる。



3.動脈の運動


心臓の運動に関連して、動脈の運動と拍動について、次のことが問題となる。

1.心臓の緊張、縮小、胸壁への衝撃、一言で言うと収縮の起こるときに、動脈は拡大し拍動する。すなわち、動脈は拡張期にある。同様に、右心室が収縮して血液を押しやるときに、身体各部の動脈と同じように肺動脈は拍動し拡張する。

2.左心室が運動、拍動、収縮を終了すると、動脈の拍動も止まる。さらに、左心室がゆるやかに収縮するときには、動脈の拍動はほとんど認められない。同様に、右心室の拍動が止まるときに、肺動脈の拍動も止まる。

3.さらに、動脈を切開するか穿孔するならば、左心室収縮の瞬間にその傷口から血液がはげしく噴出する。同様に肺動脈を切開すると、右心室が収縮するときに、血液のはげしい噴出をみるであろう。

同様に魚で心臓から鰓への血管を切断すると、心臓が堅くなり収縮したときに、切断した血管から血液が噴出する。

同じように動脈切断において血液が近くまたは遠くに噴出するときに、噴出は動脈の拡張期で、心臓が収縮して肋骨を打っているときに相当して起き、心臓が収縮期にあるときにこの運動によって血液が押し出されるのであることを知る。

この事実から、ふつう考えられているのとは反対に、動脈の拡張は心臓の収縮期に対応することは明らかである。動脈は心室の収縮によって押し込まれた血液によって満たされ拡張される。それ故、動脈は袋や膀胱のように満たされることによって拡張される。鞴(ふいご)のように広がるので満たされるのではない。したがって体内のすべての動脈が拍動するのは、一つの同じ原因、すなわち左心室の収縮によって起きる。同様に、右心室の収縮によって肺動脈は拍動する。

動脈の拍動は左心室からの血液の衝撃によることは、手袋に息を吹き込むときのことで示される。すべての指は同時に広がり、その張り方は脈拍と同じようである。緊張の因果関係は心臓の拍動にあるので、心臓が激しく作用するに応じて、緊張はより充実し、強くなり、頻繁になるが、心臓のリズム、容量、順番は保たれる。血液の運動、心臓の収縮が起きる時間、および動脈(とくに末梢)の拍動を触れる時間、は同時でないとは考えられない。これは手袋や膀胱を膨らませるのと同じである。太鼓や長い材木の両端で、打撃と運動が同時に起きるのと同じである。アリストテレスもまた次のように言っている。「すべての動物の血液は動脈内で拍動し、拍動はすべての場所に同時に送られる。」さらに、「すべての静脈は同時に拍動し、続けさまに動く。これは拍動が心臓に依存するからである。心臓は絶えず動いているので、静脈は一緒に続けさまに動く。」ガレノスが言っているように、アリストテレスは動脈のことを静脈と呼んでいた。

このことが明白な真理であると自信をもつことのできた症例を、かって経験した。この人は頸の右側に拍動する大きな腫脹をもっていた。これは動脈瘤で、鎖骨動脈が腋の下に向かった部分にあり、動脈の糜爛によって起きたもので、毎日大きくなっていた。心臓の拍動に応じて血液が入るにつれて、目に見えて広がった。この関係は死後に解剖によって確かめられた。同じ側の腕においては脈拍が弱く、血液の大部分が動脈瘤に取られたために血流が遮断されたためである。

それ故、圧迫、梗塞、遮断のどれによるにせよ、動脈における血液の運動が妨げられるときには、その動脈の末梢の部分の脈拍が弱くなる。動脈の拍動は血管中の血液の衝撃に他ならないからである。


4.心臓とその心房の運動


これまで述べてきた運動の他に、心房に関係する運動について注意しなければならない。

博学で巧妙な解剖学者であるバウヒン(1560-1624)とリオランは、動物実験で心臓の運動を注意深く観察すると、時間および場所の異なる4つの運動があると述べている。そのうち2つは心房、2つは心室に固有なものである。権威者に楯突くようであるが、場所の異なる4つの運動はあるが、時間については言うことができない。何故かと言うと、心房2つは一緒に動き、心室2つも同様だからである。したがって、場所は4つであるが、時間はたった2つである。このことは次のように起きる。

2つの運動が一緒に起きている。心房2つの運動と心室2つの運動である。これらは同時に起きるわけではない。心房の運動が先行し、心室の運動がこれに続く。運動は心房に始まり、心室に波及する。運動がゆっくりとなり、心臓が死につつあるとき、または魚や冷血動物では、これら2つの運動の間に休止期がある。その結果、刺激された心臓は時には早く時には遅く心房の運動に反応するように見える。最後には死が近づくと固有の運動で応答するのを止めて、うなづくような運動をするようになる。実際に動くと言うよりは拍動している心房にたいして運動の徴候を示すだけになる。したがって心室は心房よりも早く拍動を止め、心房は心室よりも長生きすると言われてきた。左心室はもっとも最初に拍動を止め、次に左心房、次に右心室、そして他のすべてが停止して死んでも、ガレノスが言ったように、右心房は拍動し続ける。したがって、生命は右心房にもっとも長く残っているように見える。徐々に死につつある間に心臓が応答し、心房の2つか3つの収縮の後で作用し、ゆっくりと、いやいやながら、努力しているように一つの拍動をすることがある。
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次のことは強調しなければならない。心臓が拍動を止めた後でも、指を心室の上に置くと心房の拍動を感ずることである。これは、血流による動脈の拡大で心室の拍動を動脈で感ずると、これまで述べてきたこととまったく同様である。心房のみが拍動しているときに心尖を鋏で切ると、心房の収縮にさいして血液の流れ出ることをみるであろう。したがって、血液が心室に入るのは心室の誘引や拡大によるのではなく、心房の拍動によって押し込まれることは、明らかである。

ここで判るように、拍動が心房または心室で起きていると私が言うときは、収縮を意味している。最初に心房が収縮し、次に心臓そのものの収縮が起きる。心房が収縮するときに心房とくに血液が少ししか含まれない部分は蒼白になる。しかし心房は血液の貯蔵庫または貯水池として満たされる。これは自発的に、中央に向かう静脈内の運動によって起きる。蒼白さは心房の収縮にさいして心房の外部で顕著である。

一つだけの心室と、心房として一種の血液の満ちた袋と、からなる心臓をもつ魚やカエルその他の動物では、この袋が最初に収縮し、続いて心臓すなわち心室の収縮の起きることがわかる。

しかし、ここでこれと逆の性質をもつ観察を記載すべきだろう。ウナギ、ある種の魚、または高等動物の心臓を体外に取り出すと、心房なしに拍動する。それどころか、細かく切ると幾つかの部分は収縮したり弛緩したりする。これらの動物では、心房の運動が止まった後でも、心臓の主な部分が拍動したり動悸したりする。しかし、これは基本的な湿気が粘稠または脂肪性で反応し難く溶け難いために、根強く生きることによるのではなかろうか?同じような特性はウナギの肉に見られる。皮をはぎ、内臓を除き、小さく切っても、動くのが見られる。

ある時ハトで実験しているときに、心臓が拍動を完全に停止し心房も運動しなくなった後で、指を唾液で濡らし心臓をしばらく暖めてみた。この湿布の作用によって新しい力と生命が得られ、その結果、心室と心房が拍動し、収縮と拡張を繰り返すことを観察した。これはあたかも死から生き返ったようであった。

この他に、心臓および右心房まで拍動を停止したとき、すなわち心房死にさいして、右心房にある血液それ自身にかすかな運動、波動、鼓動を観察した。これは熱と精気に満ちていると考えられるときに顕著であった。この種の事柄は、ニワトリの雛を孵卵する最初の7日内に顕著であった。アリストテレスがすでに観察しているように1滴の血液が出現する。成長が続き雛が生育すると、心房が作られ、拍動が生命の徴候を示す。最後に数日後に体の外形が作られる。続いて心臓の心室部分が作られる。その部分は体の他の部分と同じように白く、見たところ血液はない。拍動はしないし動かない。私は3月の初めのヒト胎児で同様なことを見た。心室は白く血液は無かったが、心房にはかなりの量の紫色の血液があった。同様なことが鶏卵でも起きる。雛が作られて大きくなると、心臓は大きくなり心室を持つようになり、血液を授受するようになる。

この結果、次のことを強調しなければならない。この問題を深く研究しようとする人は、心臓全体がprimum vivens, ultimum moriens (最初に生まれ、最後に死ぬ)ではなく、心房またはヘビ、サカナその他でこれに相当する部分が最初に生まれ、最後に死ぬ、と結論すべきであると。

死後にも残っているようにみえるかすかな鼓動は、血液自身または精気に固有なものとは考えられない。生命が心臓の拍動や鼓動とともに始まるというのは問題である。アリストテレスにより生殖精気と呼ばれた動物の精液は、跳躍して生物のように動物体を離れる。アリストテレスがさらに述べているように、自然は死にさいして、進んできた経路を逆に進んで、出発した場所に戻る。動物の発生は無生物から進み、存在は非存在から進む。逆行するときには存在は分解して非存在になる。したがって、動物では最後に作られたものが最初に失われ、最初に作られたものが最後に失われる。

ほとんどすべての動物は心臓を持っている。大きな動物、赤い血液を持つ動物だけではない。小さく、色の無い血液の動物、たとえばナメクジ、カタツムリ、貝類、エビ、カニ、ザリガニその他も心臓を持っている。ミツバチ、クマバチ、ハエでさえ、拡大鏡を使って尾と呼ばれる部分の先端に心臓が拍動しているのを見たし、他人にも示した。

蒼白色の血液をもつ動物で心臓はゆっくり悠々と拍動し、死につつある動物のように緩慢に収縮する。このことはカツツムリで見られる。この動物で心臓は体の右側の開口部にある。この開口部は呼吸にさいして開いたり閉じたりし、肝臓に相当する部分の近くで体の上端で切開すると、唾液が排出される。

次のことが観察される。冬の寒い時期に、カタツムリのように血液前の動物では拍動が見られない。これらの動物は植物または植物-動物と呼ばれるものと同じように生きるからである。

次のことに注意しなければならない。心臓を持っている動物は心房または心房に相当するものを持ち、さらに心臓に2つの心室があるときには2つの心房がある。しかし、その反対(心室があるが心房は無い)は正しくない。卵からの雛の形成に注目すると、最初は心室も心房も持たず、拍動する血滴だけがみられる。心臓の形成は徐々に起きる。高度の組織を持たない動物たとえばミツバチ、クマバチ、カタツムリ、エビ、カニなどでは、生命の初めまたは根元として、赤色または白色の拍動する袋が見られる。

わが国には小さいエビが居て、テムズ河または海で取ることできる。全身は透明である。これを少量の水に入れることによって、私と友達が心臓の運動をはっきりと観察することができる。体の外部は見るのを邪魔せず、窓から眺めるのと同じである。

殻を取り除きなま暖かい水につけることによって、孵化の第4または5日に靄(もや)のような雛を観察した。問題の靄の中央に血の点があり、小さいので収縮にさいして消失して見えなくなり休止期には赤くピンの先端のような点として再出現した。見える時と見えない時の間、いわば存在と非存在の間に、拍動は生命の始まりを示した。


5.心臓の運動、作用、機能

これらおよび類似の観察から、心臓の運動は次のようであると確信している。

最初に心房が収縮し、その収縮にさいして、静脈の首部、貯蔵庫、貯水池としての心房がそれに含んでいる血液を心室に押し込み、心室は血液で充満するので、心臓は真っ直ぐになり、繊維が固くなり、心室が収縮し、拍動する。拍動によって、心房から供給された血液を心室は動脈に送り込む。右心室は内容物を肺動脈(この時代は動脈性静脈と呼ばれていた)によって肺に送る。この血管は(静脈とは呼ばれていたが)構造、機能、その他の点で動脈である。左心室は内容物を大動脈を経て動脈によって全身に送る。

この心室の運動と心房の運動の2つの運動は続けて起き、これらの運動の間にハーモニーとリズムがあり、ただ1つの運動であるかのように2つの運動が起きる。このことはこの運動が速い温血動物において明らかである。一つの回転板が動くと他の回転板も同時に動く機械と同じである。または銃器で、引き金を引くと火打ち石が落ち、鋼鉄に当たり、火花が出て、火薬の中に落ち、火薬が点火し、炎が広がると、銃身に入り、爆発が起き、銃弾を発射し、標的に当たる。これらの出来事のすべてはあまりにも速いので、一瞬に起きたように見える。

嚥下についても同じ事が言える。舌根の上昇および口の圧縮によって、喉頭がその筋および喉頭蓋によって閉じられているときには、食べ物や飲み物が口峡に送られる。物を入れようとして持ち上げられ口を広げてある袋のように、咽頭は持ち上げられ筋によって口が広げられる。口に入っていたものを受け入れると、内容物は横走筋によって押し下げられ、縦走筋によってさらに運ばれる。これらの運動は異なる別個の器官によって行われるが、これらの運動はハーモニーを持ち、嚥下と呼ばれる一つの運動、動作となっている。

心臓の運動、動作もこれとおなじようである。血液を静脈から動脈に注ぎ込む一種の嚥下作用である。これらのことを考えて、生体における心臓の運動を観察するならば、私が述べたこと、すなわち心臓が真っ直ぐになり心房が連続的な運動をする、こと以外にも気がつくであろう。すなわち、はっきりしない波動や、作用にあたって少しねじれるような右心室軸方向への横への傾斜などである。すべての人が気がついているように、ウマが水を飲むときに、喉の動きの度に水は胃に吸入され送られ、音が出て、耳および触れた手に拍動を与える。同様に心臓の運動の度に、血液が静脈から動脈に送られるときに拍動が起き、胸の中で聴くことができる。

心臓の運動はまったくこのようなものである。心臓の動作は動脈による血液の全身への輸送であり配分である。したがって、動脈で触れる脈拍は心臓から送られる血液の衝撃である。

心臓が血液を押し出して局所的に運動を与え全身に配分する他に、他の物たとえば、熱、精気、完璧性、を加えるかどうかは、段々に問い尋ね、他の理由をもとにして決定されるべきであろう。今のところ、心臓の動作によって血液が心室を経て静脈から動脈に輸送され、動脈によって体のすべての部分に配分される、ということで充分だろう。

実際、上に述べたことは、心臓の構造および弁のの配置と作用から、すべての人の認めることである。しかし、かれらは半盲の人や暗闇を手探りで進む人のようであった。すでに見たように種々の矛盾し支離滅裂な感情を述べ、憶測によって多くのことを主張している。

この問題における疑問と誤謬の大きな理由は心臓と肺の密接な関係であった。肺動脈と肺静脈の両方が肺の中に入り込んでいるのを見たときに、右心室がどのようにして血液を体内に分配し、左心室がどのようにして血液を大静脈から取り込むかは、謎であった。このことは、静脈の起源と用途および血液の調製についてガレノスがエラシストラトスへの反論の中に書いている。「血液は肝臓で作られ、心臓に運ばれて適当な形態となり、最終的に完璧なものになる。これは意味が無いわけではない。どんな大きな完全な仕事も一つの作業では完成されたものはないし、一つの装置で磨き上げられたものはない。もしもあるとしたら、まったく完全な血液を心臓から取り出し幾つもの動脈が精気を全身に配達するような他の血管があるなら、見せてみよ。」輸送の真の方法が見つからないことはさておいて、血液を心臓から体全体に運ぶ血管を発見できなかったので、ここでは納得のゆく意見は許されない。

しかし、我々が信じガレノス自身が理性に従って他のことで認めている意見、すなわち血液を心臓から体全体に分配する血管として大動脈があること、を誰かがエラシストラトスのために指摘したとしたら、非常な天才で学識のあるガレノスは何と答えただろうか。もしも彼が動脈は精気を運ぶが血液を運ばないと言ったのなら、動脈は精気以外の何物も含まないと信じているエラシストラトスに正しく十分に答えているであろう。しかし、エラシストラトスに反対して書いていること、すなわち物質としての血液が動脈に含まれ精気は含まれていない、という考えを否定し自分自身に矛盾したことになる。この事実は彼が強力な議論だけでなく実験によっても示しているものである。

しかし神のようなガレノスが他の場所で述べているように次のことを認めるとしよう。「すべての動脈は一つの大きな動脈から出発し、これは心臓から発している。これらの血管は血液を含み運んでいる。半月弁が大動脈の入口にあり、血液が逆流するのを防いでいる。他に目的の無い限り、自然は弁をこのもっとも尊い臓器につけることはないであろう。」彼の言葉を引用しているのではあるが、もしもこの医師の父であるガレノスがこれらのことを認めるとしたら、高度に完成した血液を全身に運ぶ血管は大動脈であることを、どのようにして否定できるか、考えることはできない。

彼に続いて今日までのすべての人々と同じように、彼はたぶん逡巡していたのであろう。これまで言ってきたように、心臓と肺を密接に関連づけることによって、血液が静脈から動脈へ運ばれる経路を知らなかったからである。解剖にさいして肺動脈と左心室が濃い黒い凝固血液を見たときに、解剖学者は少なからずこのことで迷わされた。血液は心臓の隔壁を通して右心室から左心室へ浸透すると、結論せざるを得なかった。この想像を私はすでに否定した。血液の新しい経路を準備し公表しなければならない。ひとたび明らかになると、心臓と動脈の拍動について私の提案したこと、すなわち静脈から動脈への血液の流れおよびこれらの血管による血液の分配、を認めることにより、何も困難は無くなるであろう。


6.血液の流れる経路


人間では心臓と肺が密接に関連しているように見え、心臓と肺を密接に関連づけたことが、たぶんこの問題で誤りを犯した原因である。人々は動物一般を論じながら、解剖学者として、死んだ人の体だけを研究しているので、誤りを犯した。一つの国の形を研究して国家の一般体系に広める人、ある畑の性質を知って農学をマスターしたと思う人、特定の命題から一般的な結論を引き出す人、と同じである。

解剖学者が人体を解剖すると同じように下等動物を解剖していたならば、彼らを困らせているような問題は困難なく解明されていただろう。

まず最初に、一つの心室しか無く肺が無いような魚類では、ことが明らかである。心臓の底部にある袋は人間の心房に類似したもので、これは血液を心臓に押し込み、心臓は動脈または動脈に似た血管によって血液を輸送することは、明らかである。このことは目で観察することができるし、血管を切ると心臓の拍動に応じて血液が流出することによって、確証される。

一つの心室だけしかないが、声を発するので一種の肺を持っていると思われる動物、たとえばガマ、カエル、ヘビ、トカゲでも、このことを示すのに困難はない。私はこれらの動物の肺をいろいろ研究してきたが、ここでは述べない。これらを解剖すると血液は高等動物におけると同じように、すなわち心臓によって、静脈から動脈に送られることが示される。この経路はまったく開かれていて明白である。困難は無いし疑いは無い。人で隔壁に穴が開けたり、取り除いたり、二つの心室を一つにしたのとまったく同じである。血液が静脈から動脈に通る様式を疑う人は無いと思われる。

肺が無い動物はそれを持つ動物より多いし、心室が一つしかない動物は二つある動物より多い。したがって、生物の数を考えると、一般に、血液が静脈から心臓の内腔を経て動脈に運ばれる経路がある、と結論することができる。

しかし、よく考えると、同じことは肺をもつ動物の胎児から、もっとはっきりと得ることができる。すべての解剖学者が知っているように、胎児では心臓の4本の血管、すなわち大静脈、肺動脈、肺静脈、大動脈、は成人とは違う様式で連結している。大静脈と肺静脈の最初の結合は、大静脈が肝臓の少し上、右心室に開き冠静脈を分枝するところで起きる。これは横の吻合である。これは卵円型の広い孔であり、大静脈と肺静脈の間の通路になっている。その結果、血液はこの孔を通して大静脈から肺静脈および左心房へ、左心房から左心室へ大量に自由に流れ込む。さらにこの卵円孔の肺静脈の見える位置に、薄く丈夫な膜がある。これは孔より大きく、蓋のようになっている。成人ではこの膜は孔を塞ぎ、全周で癒着し、閉鎖し、最後には存在がはっきりしなくなる。胎児でこの膜は遊離していて、血液が大静脈から肺や心臓に行くことを許しているが、大静脈には逆流してないようにしている。簡単に言うと、胎児で血液は卵円孔を通って大静脈から肺静脈に流れ、そこから左心房に達する。一旦そこに入ると逆流することはない。

もう一つの結合は肺動脈によるものである。これは右心室から出て2つに分岐するところで起きる。この2本の幹に動脈管(ボタロ管)が隠したがって胎児を解剖すると、2本の大動脈が心臓から出ているように見える。この動脈管は誕生後に徐々に細くなり、しなび、最後には臍の血管のようにほとんど消失する。

動脈には膜や弁は無く、血液の正逆の流れを支配したり妨げたりすることはない。肺動脈(胎児では続きに動脈管がある)の根本に半月弁があるからである。これは中から外へ開き、この方向すなわち右心室から肺動脈および大動脈への流れは妨げないが、肺動脈または大動脈からの逆流を防ぐ。完全に正確に閉じるので、胎児において流れの有効な障碍となる。したがって、心臓の収縮にさいして、血液が動脈管または卵円孔の経路で右心室から大動脈へ押し出されることは、理屈にかなっている。

ふつう言われているようにこれらの二つの大きな経路が肺の栄養のためにあるということは、ありそうもないし矛盾である。成人で肺は熱や運動のために大量の栄養を必要とするにもかかわらず、これらは閉じ廃止され整理される。胎児の心臓は拍動せず、動作したり動いたりしないので、肺の栄養のために自然はこれらの経路を作らざるを得なかった、という主張も同じである。これは明らかに誤りである。孵卵している卵や子宮から取り出した胎児を見ると、心臓は成人と同じように動いているので、自然はそのような必要性を感ずるはずはない。私はこのような運動を繰り返し見てきた。アリストテレスも同じようにこのことの証人である。彼は言っている。「拍動は心臓にとって本質的なものである。このことは動物実験や卵からの雛の誕生で知ることができる。」さらに、問題の経路はヒトや他の動物で誕生まで存在するだけではなく、たとえば、ガチョウ、シギなどの鳥や多くの小さい動物で、一般に解剖学者が記載しているように、一生涯ではないにしろ、数月または数年のあいだ存在する。大静脈から左心室への血液の新しい経路(動脈管、ボタロ管)をボタロが見つけたと思ったのはこのようなことによる。比較的大きい成熟したマウスで同じようなものを見たときに、私も最初は同じ結論に導かれた。

動脈管や卵円孔が閉じていないヒトの胎児や動物の胎児では同じようなことが起きる。すなわち、心臓はその運動にともなって、血液を開いた明らかな経路を経て、左右の心室を通って大静脈から大動脈に送り込む。右心室は右心房から血液を受け取り、肺動脈およびその続きすなわち動脈管を経て大動脈に送り込む。同じように左心房は大静脈から卵円孔を経て血液を受け取り、左心室は左心房の収縮によって負荷された血液を、動脈口を経て大動脈に送り出す。

その結果、胎児において肺が働いておらず、ただ存在するだけのときには、自然は血液の輸送にあたって、2つの心室をあたかも1つの心室として使用する。肺のある動物の胎児の肺が休止状態で働いていないときの条件は、肺の無い動物とものと同じである。

胎児のばあいは、成人で隔壁を除いて2つの心室が繋がったと同じ状態で、心臓は血液を大静脈から大動脈に輸送している。したがって、多くの動物 ー生涯のある時期にはすべての動物ー でこの経路の使われていることは明らかである。しかし質問しなければならない。肺の機能が休止している胎児期に、肺を通ることができないので、自然は前述の直接経路を使えるようにしているのに、何故にある動物 ー温血動物で成年に達したもの、人間も含めー において、同じ事が肺実質を通して行われるのか?自然は最良のことをすると言われているのに、胎児で使われ、多くの動物が使っている種々の経路を閉鎖するのは何故であるか?自然は血液の通る新しい経路を開かないだけでなく、すでに存在するものまで閉じている。

血液が大静脈から肺静脈に達し左心室に達する経路を求める人にとって、なぜ比較的大きな完全な成長した動物では、血液が他の動物のように直接で明らかな道を通らずに、肺実質を濾過しようとするか、が討論点になる。私は肺実質を通る経路以外は適当でないと考えられるので、この理由を動物実験によって求めるにあたり、どれが最も賢い方法かを問題とすることになる。大きくより完成された動物は成長すると熱を出して冷やすことが必要となり、血液は肺に送られて吸い込んだ空気によって冷やされ沸騰しないようにし、消火される、などが必要に違いないからである。

これらのことを確かめ充分に説明するには、肺の機能およびそれが存在する目的を推測しなければならない。このような問題および呼吸の問題、空気の必要性と用途その他、さらにこれらの事柄と関係して動物体に存在する臓器の種類を私は多数研究してきた。しかし、別の論文でしかるべく発表できるようになるまで、この問題には触れないことにしよう。しからずんば、心臓の用途と運動という現在の問題からあまりにも逸れてしまうし、問題を横に置いて話をし、説明をせずに混乱させて放棄する、と非難されるであろう。

所期の問題に戻ろう。説明しなければならない問題、すなわち、より完全で温血の成熟した動物やヒトでは、血液が心臓の右心室から肺動脈を経て肺に入り、肺静脈を経て右心房に入り、そこから心臓の左心室に行く、という問題に進もう。最初にこれが起きうることを示し、次に実際にそうであることを証明しよう。


7.血液は肺の実質を流れる


水が土を通してしみ込んで小川や泉となり、汗が皮膚を通し、尿が腎臓の実質を通すことは、可能でありこのことが起きるのを妨げるものはない、ということで我々は同意する。スパの水やパドアのラ・マドンナの水や酸っぱいものや硫黄くさいものを何ガロンも飲んだ人々が、1,2時間後に全部を膀胱を経て排泄することは、よく知られている。このような量の液体は小時間消化粥の中に留まり、肝臓を通過し(食物汁は1日に2回肝臓を通ると考えられている)、静脈を流れ、腎臓の組織を通り、輸尿管を経て膀胱に入ることになっている。

栄養ジュースが肝臓を通過するにもかかわらず、血液、いや全血液が肺実質を通過することは全くあり得ないことと否定し、このような命題は不可能であり信用することできない、という人々がいる。私はかれらが、そう思ったら簡単に完全に同意し、そうでなければ反対し、要求されたときには臆病で、要求されないときには大胆な、種族に属すると、詩人にしたがって答えることにしている。

肝臓の実質はひじょうに緻密で、腎臓も同様である。肺の組織は粗で腎臓に比べるとスポンジのようである。肝臓では押し込んだり衝撃をあたえる力はないが、肺で血液は右心室の拍動で圧力をかけられる。この衝撃の結果として血管と肺胞は拡大する。呼吸に際して肺は絶えず上下の運動をする。その結果、肺胞と血管は開いたり閉じたりする。これはちょうどスポンジやスポンジの構造をする部分が圧縮されたり広げられたりするのと同じである。これに対して、肝臓は休止状態にあって、拡張したり収縮したりはしない。最後に、ヒト、ウシその他の大動物一般で、栄養が行われなければならず、静脈に入らなければならず、この道以外にあり得ない理由で、消化汁の全体が肝臓を通ることに反対する人が無いならば、血液が成人で肺を通るという理屈が成立しないのだろうか。

有能で博学の解剖学者のコロンボに従って、肺血管の能力と構造および肺静脈と心室の関連から、血液が肺から来ていると考えないのだろうか。静脈および肺に血液がいつでも充満していて、肺から来ている他は考えられない。コロンボも我々も、上に述べたこと、解剖、およびその他の議論から、問題は明白であると考えている。しかし、権威者が言ったことでなければ信じない人々も居るので、私が論じている真理はガレノスの言葉で確証されることを、彼らに知ってもらおう。ガレノスによると、血液は肺動脈から肺静脈、次に心臓の左心室、それから体の動脈に運ばれるだけでなく、この絶えざる運動は心臓の拍動と肺の呼吸運動によるとされている。

誰でも知っているように肺動脈の開口部には、3枚のシグマ字形の弁からなる半月弁があり、血管内に送り込まれた血液が心臓内腔に戻らないようにしている。

ガレノスはこの弁の目的と必要性を次のように説明している。「いたるところに動脈と静脈の吻合と開口がある。これらは目に見えず疑いもなく細い通路で血液と精気の交換を行っている。もしも肺動脈の入り口がいつでも開いていて、自然が必要に応じてこれを閉ざしたり開いたりする方法を見つけていなかったら、胸郭の拡大にさいして、血液が目に見えない小さな開口を通過して動脈に運ばれることは不可能であろう。しかし、すべてのものは同じように受け入れられたり押し出されたりはしない。軽いものは臓器が拡張したときに容易に引き込まれ、収縮するときに押し出される。これは重いものより容易である。同じように広い通路は狭い通路よりもものを素早く引き込み押し出す。しかし胸郭が収縮すると、肺静脈は肺にあるので内側に追いやられ、すべての側で強く圧迫され、すぐに含んでいる精気を押し出し、同時に血液のある部分を小さい孔から引き入れる。このことはもしも血液が肺動脈の太い開口から自由に心臓に戻るとしたら、起きないことである。しかしこの大きな開口から戻ることが邪魔されているので、あらゆる側から圧迫されたときに、一部の血液は前に述べた小さな開口から肺静脈ににじみでる。」と。

すぐ後の次の章で彼は言っている。「胸郭が収縮するほど、血液を押し出そうとすればするほど、半月弁は堅く閉じて、逆流しないようにする。」前の章でも彼は同じことに言及している:「弁が無かったら、三重の不便がある。血液は長いあいだ無益に流れる。肺の拡張期に内側に流れてすべての動脈を満たす。収縮期には、エウリポスにおける潮の干満のようにのように、往ったり来たり流れる。これは血液には適当ではない。このことは大したことではないように見える。しかし、これにより呼吸機能は損なわれる。したがって小さな問題ではない、等々。」

すぐ後で彼は述べている。「第三の不都合がある。これは小さな問題ではない。造物主がこのように膜のような付属物を作らなかったら、息を吐くときに血液は逆流するだろう。」次の章で結論している。「弁は同じ目的を持っている。逆流を防ぐためである。しかし、それぞれ固有の機能を持っている。あるものは心臓から引き出し、戻るのを妨げる。他のものは心臓に送り込み、そこから還るのを妨げる。自然は心臓を役に立たない仕事で困らせることは意図しない。その臓器から遠ざけるのが好ましいものを持ってこない。持ってくる必要のあるものを取り去ったりしない。全部で4つの開口があるので、それぞれの心室に二つづつある。一つは取り込むためのもので、もう一つは押し出すためのものである。」

彼は言っている。「さらに、一枚の被覆からなる一本の血管があり心臓に差し込まれており、他の一本の血管は二枚からなり、右心室(ガレノスは右心室のことを言っているが、左心室についても言える)から出ている。両方の血管に共通の一種の貯水池があって、一本の血管を通じて入り、他方を通じて出ているのは、当然である。」と。

ガレノスは大静脈から肺への血液の輸送を論じている。さらに、単に言葉を変えるだけで、血液は心臓を経由し静脈から動脈に運ばれていることを示すことができる。偉大なるガレノス、医師の父、によって次のことが明らかになっている。血液は肺動脈を経て肺を通り肺静脈の細い枝に入る。これは心臓の拍動と肺および胸郭の運動によるものである。さらに心臓は血液を心室により受け取り、倉庫や貯水池から押し出すように、心室から押し出す。この目的のために心臓は4組の弁を持ち、そのうちの2組は血液を受け入れるためで、2組は押し出すためである。

これによって、エウリポスの潮のように、いたずらに往復したり、出るべきなのに内腔に戻ったり、残るべきなのに出てゆくことにより、心臓に無駄な仕事を強要して、肺の機能を邪魔することがないようにしている。最後に、血液は右心室から左心室へ、大静脈から大動脈へ、肺の多孔質を通っている、という我々の立場は、明白に次のことによって示される。すなわち、血液は肺動脈を経て右心室から肺に絶えず送られ、同様に肺から左心室に絶えずくみ出されており、前に述べたことと弁の位置からこれは連続的な輸送以外ではあり得ない。次に血液は右心室に絶えず流れ込み左心室から流れ出ているので、同じようにして、血液が大静脈から大動脈に連続的に流れるのでないことは、不可能である。

大部分の動物および未熟なすべての動物において、何が起きているかを、解剖は論理的に示すことができる。成人で同じようなことの起きることも、ガレノスの言葉およびこれまで述べてきたことから、確かである。ただ、胎児などの場合は開いた明らかな道(動脈管および卵円孔)経由なのにたいし、成人では肺の隠された多孔質組織および微細な血管の吻合を通ることが違う。肺が無い動物では、一方の心室、すなわち左心室だけで血液を全身に配分し、大静脈から血液を組み込むことができるが、同じ血液が肺を濾過しなければならなくなると、自然は右心室を加えてその拍動によって血液を大静脈から左心室に押し込むことになる。

このようにして、右心室は肺のためにあり、肺の栄養のためではなく、肺を経て血液を輸送するために存在する。特別な純粋な物質からなる脳や、輝かしいすばらしい構造を持っている眼や、冠動脈でより適当に栄養を供給されている心臓の筋以上に、肺がそのように大量の栄養物、心室から直接に供給される純粋で精気に満ちた栄養物を必要と考えることは、不合理である



8.心臓を通る血液の量について


これまで血液が静脈から動脈へ流れる経路、および心臓の作用によって血液が押し出され分配される機構について述べてきた。ある人々はガレノスまたはコロンポの古典または他の人々の意見を検討して、この問題に賛成するだろう。通過する血液の量および起源はこれまで言及されていない。したがって、人々からねたみを受けるだけでなく、人間全体を敵に廻すのではないかと恐れている。習慣が第二の天性になっており、ひとたび種を蒔かれると深く根を張るので、古代にたいする尊敬心はすべての人々に影響する。すでに賽は投げられた。私は真理への愛と教養ある心の公平さを信じている。

動物実験で得られたにしろ、それについての考察によるにせよ、心室の研究や心臓に出入りする血管の研究で得られたにせよ、これらの流路の釣り合いと大きさ(自然は無駄なことをするはずはないので、目的なしにこのように大きいはずはない)、弁および一般に心臓の他の部分の配置および詳細な構造、その他の多くのことなど、大量の事実を調査することによって、輸送される血液の量はどれほどか、どのくらい短時間で通過するか、などを、実を言うと、しばしば真面目に考え、長い時間にわたって熟考したりした。

その結果、血液が動脈から静脈に輸送され心臓の右側に戻らない限り、静脈が空にならず動脈が余分の血液で破裂しないで、血液を摂取した食物汁で補給することは不可能なことが判ったの。したがって、循環運動と呼ばれるような運動があるのではないかと考えはじめた。後になってこれの正しいことが判った。ちょうど右心室から血液が肺動脈を経て肺におくられるのと同じように、最終的に血液は左心室の作用で動脈に押し出された、全身に分配され、静脈および大静脈を経て、前に述べたように回って左心室に戻る。

これはアリストテレスが空気と雨の運動を天界の循環運動となぞらえたのと同じ意味で、この運動を循環運動と呼んでもよいだろう。湿った大地は太陽によって暖められて蒸発する。上に昇った蒸気は凝結して雨になって降り注ぎ、大地を濡らす。このようにして生物の世代が作られる。同様に循環運動により、また太陽が近づいたり離れたりすることによって、嵐その他の気象変化が生ずる。

血液の運動によって体のいろいろの場所はより暖かく、より完全で、蒸気が多く、精気を含み、いわば栄養のある血液から、栄養を受け、養育され、活気づけられる。この血液は他方これらの体の部分と接触することによって、冷やされ、凝固し、いわば無力化される。これは国王、すなわち心臓にあたかも根源であり体のもっとも内部にある故郷に戻るように戻り、優秀さ、すなわち完成状態を取り戻す。ここで流動性、天然の熱を新たにし、力強くなり、熱情的になり、生命の宝物庫となり、バルサムを塗られて精気に満ちるようになる。ここから再び配分される。これらはすべて心臓の運動と作用にもとづく。

心臓はしたがって生命の始めである。小宇宙の太陽である。太陽は逆に世界の心臓とも呼ばれる。心臓の効能と拍動によって血液は動き、完成化され、栄養を作り、腐敗や凝固から守られる。家庭の神様で、機能を果たすことによって、全身に栄養を供給し、養育し、活気づける。生命の基本、すべての作用の源である。これらについては、心臓の運動について最終の目的について考察するときに、しかるべく述べることにしよう。

血管は血液を運ぶ運河であり装置であり、2種類あって一つは大静脈で一つは大動脈である。これらはアリストテレスの言ったように、体の2つの側にあるからではなく、役割が違うからである。ふつう言われているように構造が違うのではない。前にも述べたように多くの動物で静脈は壁の厚さは動脈と異ならず、ただ機能と目的がはっきりと違うことによる。動脈と静脈は、古人はともに静脈と呼んでいた。今日では、動脈は心臓から体全体に血液を運び、静脈は全身から心臓に運ぶとするのは、ガレノスが言ったように理由が無いことではない。前者は心臓からの用水路で、後者は心臓への水路である。後者は粗野な活力のない血液を含んでいて、栄養の役には立たない。前者は消化された特別に栄養価値のある液体を運ぶ。



9.第一命題から血液循環の存在が確認される

言葉だけで基礎が無いのにもっともらしい主張をし、十分な根拠なしに新説を述べている、と言われないために、3つの命題を提出し、これを証明しよう。このことが確立されると、私の主張している真理は、必然的にすべての人々に明白なものとみなされるようになるであろう。

第一に、消化液からは供給できないほど大量の血液が、心臓の作用によって大静脈から大動脈に絶えず送られ、全体が心臓を急速に通過している。

第二に、血液は動脈の脈拍によって、連続的な変化のない絶えざる流れとして、体の各部分や四肢に押し込まれている。その量は栄養に必要なものよりずっと多いし、液体全量が供給できるより多い。

第三に静脈は同様にこの血液を絶えず体の各部分や四肢から心臓へ戻している。


これらの命題が証明されると、次のことが明らかになると思われる。すなわち、血液は心臓から四肢に、循環し、回転し、推進し、戻り、一種の循環運動をすることである。

拡張期に左心室の含む血液の量をまず80,50,40グラムとみなそう。死体で私は50グラム以上をみている。次に収縮期には拡張期にくらべてどれほど少ないか、収縮の度に大動脈はどれほど血液を排出するか、推定しよう。第三章の結果および弁の構造から、収縮にさいして大動脈から何かが排出されることを、世界中の人々は同意するだろう。ここで概算として、左心室内の血液量の4分の1、5分の1、6分の1または8分の1が、収縮毎に動脈に排出されるとしよう。その結果として15グラムから5グラムほどの血液が排出されるであろう。この血液は弁が大動脈の根本にあるので心室に戻ることはない。

半時間に心臓は千回以上、ときには二千、三千ときには四千回の拍動をする。1拍動あたりの排出血液量を乗ずると、推定量によって25キログラムから12キログラム程度の血液が心臓から動脈に送り出されることになる。これらの値は全身中にある血液の量より多い。ツジやイヌで同じように計算すると、1拍動ごとに2グラム、半時間に2キログラム程度の血液が大動脈に排出される。どの動物も2キログラムの血液は無い。私はこのことをヒツジで確かめた。したがって、この推定を単なる理論付けの基礎とすることによって、全血液が心臓を通り、静脈から動脈、そして肺を通ることが判る。

このことが半時間に起きるのではなく、1時間または1日に起きるとしても、消化汁の全量または静脈に同時に含まれる量以上の血液が、心臓の作用によって心臓を通過することは明らかである。また、心臓が収縮によって、あるときは排出しあるときは排出しないこと、またはほんの少量を排出こと、または想像上のあるものを排出すること、これらはすでに論破したし、常識および理屈に合わないことである。

心臓が拡張するときに心室は血液で充満しなければならないとしたら、収縮にさいして心室は血液を押し出さなければならない。これは些細なことではない。導管は小さくはないし、収縮の数は少なくないし、心室の容量の3分の1、6分の1にしろ8分の1にしろ押し出すのは一定の割合である。したがって、収縮期の心室の容量は拡張期の心室の容量と一定の関係があり、心臓の拍動の度に、一定量の血液が押し出され、受け取られる。そして、拡張に当たって心室が空であったり何か想像上の物質で充満していることは考えられないので、収縮に当たって心室が何も排出しなかったり想像上のものを排出することは無く、収縮に比例して、あるもの、即ち血液を常に排出する。

したがって次のように結論することができる。すなわち、1拍動でヒト、ウシ、ヒツジの心臓が仮に4グラムの血液を排出するとし、半時間に千回の拍動をするとしたら、4キログラムの血液を排出することになる。もしも1拍動毎に8グラムを排出するとしたら、8キログラムになる。もしも15グラムだったら15キログラムであり、30グラムだったら30キログラムとなる。これらすべては半時間に静脈から動脈に注ぎ込まれることになる。心臓の1拍動毎に排出される血液の実際の量、およびどのような環境で排出血液量がふだんより多くなったり少なくなったりするかは、この問題についてなされた数多くの観察かに基づいて、後で計算することにする。

血液があるときには多くあるときには少なく輸送され、血液の循環はあるときは速くあるときは遅くなり、個人の気性とか年齢とか、内外の環境、自然と非自然ー睡眠、休息、食物、運動、愛情、などなどに依存することを私は知っている。しかし、1拍動あたり心臓と肺を通過する血液の量を最小に見積もっても、消費する食物から供給される可能性に比べると、比較にならない莫大な量の血液が動脈や全身に排出される。これは循環して戻ってくる以外によっては不可能である。

実際、この真理を我々は生きた動物を解剖しているときに見ることができる。大きな動脈を切開する必要はない。ガレノスが人間で示したように、動脈の小さい枝を切開することによって、動脈だけでなく静脈も含めて、体の全血液が短時間すなわち半時間またはそれ以下の時間で流出する。屠殺人はこのことをよく知っており、証人となることができる。ウシの喉を切る、すなわち頸部の血管を切開すると、15分以内にすべての血管は空になり、全血液は流れ出る。同じことは人体で切断手術をしたり腫瘍を取り去るにあたって、ときおり急速にみられる。

畜殺場で動物を殺したり切断手術をしたりするときに、たとえ動脈より多くはないにしても、静脈から同量の血液が流出すると誰かが言ったとしても、上の議論は力を失わない。実際はそのようなことは無く、逆である。静脈は事実上ペシャンコになっており、推進力が無く、弁によって妨害されているので、ほんの少量の血液しか流出させないことは、すぐに判る。ところが、動脈は水を撒くように血液を力強く激しく大量に噴出させる。

次の実験は容易である。もしも静脈には触れずに、ヒツジやイヌの頸の動脈を切断するとしよう。これによって、全身の血液は激しい勢いで、大量に、急速に失われ、静脈や動脈は空になることを見る。しかし、すでに見たように動脈は血液を静脈から心臓を経由して受け取る。したがって、大動脈を心臓の根本で結紮し、頸動脈または他の動脈を切開すると、これらの動脈は空で静脈は血液で充満することを見ても、誰も驚かないだろう。

ここで、解剖にさいして、静脈に大量の血液があり動脈に少ない原因、および右心室に多く左心室に少ない原因は、明白である。古代の人が動脈(ギリシャ語の気管から命名)は動物の生きているときには精気(pneuma)以外は含まないと考えたのはこのためである。原因は次のように考えられる。動脈への通路は肺と心臓しか無いので、動物が呼吸を停止して、肺が運動しなくなると、肺動脈の血液が肺静脈に運ばれさらに左心室へ運ばれるのが妨げられる。前に見たように、胎児では肺の運動が不充分なためにこのような血液の移動が邪魔され、その代わりに隠れて見えない多孔質の組織や孔の開閉が起きる。しかし、心臓の運動は肺と同時には停止せずに、しばらくのあいだ拍動して、左心室と動脈は体に血液を配分し、さらに静脈に送る。しかし、心室や動脈は肺から血液を受け取れないので、すぐに血液を使い尽くして、空になる。この事実も我々の考えを証明するもの以外ではない。何故かと言うと、我々の考え以外で説明することは出来ないからである。

さらに、動脈の拍動の数が多く力強いほど、出血のときに体は速く血液を失う。それ故、気を失ったり驚いたりしたときで、心臓の拍動がゆっくりで弱いときには、出血は減り止まる。この他に、死体では心臓が止まった後では、頸動脈や股動脈を切開しても、全身血液の半分以上を得ることが出来ないのは、このためである。屠殺者はウシの頭を一撃して心臓が止まる前に喉を切らなければ、放血することはできない。

静脈と動脈の吻合の目的、どこにあり、どのように作用するかを、これまで誰も述べていないのは何故かが不明である。ここでこの主題の研究に入ることにしょう。



10.第一命題の証明

第一の命題、すなわち「血液は食物より供給される量以上を動脈に供給する」ということ、が計算、実験、解剖によって確認された。したがって、全体の血液は短時間に通過するので、「血液が循環運動をしている、すなわち血液が出発点に戻る」、ことは当然である。

しかしもしも誰かが、「血液が大量に流れるにしても循環する必然性は無く、すべては肉か飲み物から来るのであって、その例として牝牛が一日に10,20または40リットルまたはそれ以上のミルクを1日に出し、女性は赤ん坊1人または双子に1または1.5リットルの乳を与え、これらは明らかに食物に由来している」ことを例にしたらどうしよう。計算によると、心臓は1時間または2時間のあいだにこれ以上の量を与えていると、答えることができる。

納得しないで次のように主張して反対する人がいるかも知れない。「動脈を切開して異常な経路が開かれると血液は奔流のように流れ出るけれど、このようなことは出口が無い健康な無傷な体では起きない。動脈が充満している正常な状態では、血液はそんな正常な時間に流れること無く、戻ることを必要としない。」と。

これすべてに、次のように答えることができる。すなわち、「これまでの計算および割り当てられた理由から、拡張された心臓は収縮状態に比べて余分の血液を含み、一般に言ってこの余分の血液は拍動ごとに排出しなければならないし、自然の状態の全身に流れ込まなければならない。」と。

しかし、ヘビおよびある魚で心臓の下部で静脈を結紮すると、その部位と心臓の間が急速に空になる。したがって、目で見たことを否定しない限り、血液が心臓に戻ることを認めざるを得ない。この事実は第二命題を論ずるに当たって明白になるであろう。

我々はここに一つの実例をあげて結論を述べ、これまで述べてきたことを確認しよう。自分の目で見た証拠をもとにして、各人はこれから確信をもつことができるであろう。生きているヘビを横たえると、心臓は1時間以上にわたって静かにはっきりと拍動し、虫のように動き、縦長の形をしているので縦軸の方向に収縮し、内容を排出する。心臓は収縮期に青白くなり、拡張期に濃い色になる。これ以外に、私が真理の証拠として述べてきたことを見ることができる。ただ、ヘビではすべてのことがゆっくりはっきりと起きるだけである。

次のようにしてこの点を真昼の太陽のように明らかに見ることができる。大静脈は下部において心臓に入り動脈は上部から出る。静脈をピンセットまたは指でつまむ。血液の流れは心臓の下部で遮断され、血液は心臓の作用によって排出されるので、指と心臓の間で遮断された部位はすぐに空になる。同時に心臓は拡張期にすらその前よりも蒼白くなり、血液が不足するので、最初より小さくなる。続いて拍動がもっと遅くなり、最後に死に近づく。しかし、血流の遮断を取りやめると、心臓の色と大きさは元に戻る。

もしも、静脈でなく動脈を圧迫すると、障害部位と心臓の間および心臓そのものは異常に拡張し、濃い紫色またはさらに青黒い色になり、血液ではち切れまさに窒息するようになる。しかし障害を取り除くと、すべてのものはたちまち、自然の状態、色、大きさ、拍動に戻る。

ここに2種類の死が存在する。一つは欠乏による死であり、他は過剰による窒息である。この両者の実例はあなた方の眼前にあり、心臓についての確証を見る機会をもつことができた。



11.第二命題の証明

すべての人々に第二命題を明白にさせるために、幾つかの実験を示す必要がある。すなわち、(1) 血液は動脈を経て四肢に入り、静脈を経て還ること;(2) 動脈は心臓からの血液を運ぶ脈管で、静脈は血液が心臓に戻る道であること;(3) 四肢や末梢で血液は動脈から静脈への吻合、筋肉の多孔組織、またはその両方を通ること;である。肺を血液が通過することで述べたように、循環において血液がある場所から他の場所へ、ある点から別の点へ、すなわち中央から末梢へ、そして末梢から中央に戻って、動くことは、明らかである。最後に、前と同じように計算することにより、循環する血液の量は摂取した食品に基づくものではないし、栄養に必要な量ではないことが明らかになる。

結紮についても、何のために血液を引き寄せるかが明らかになる。熱、痛、吸引、今まで考えられているその他の原因によるものではない。医術における結紮の利用と効用、すなわち出血を止めたり促進するのを説明することができるし、どのようにして末梢の壊死や広範な壊疽を引き起こすか、どのようにして動物の去勢、疣や肉腫の除去に役立つかを、説明することができる。

しかし、結紮によるこれらの効果の原因と道理をほとんど誰も正しく評価し理解していない。ほとんどすべての人々は古代の著者を信じて病気の治療に結紮を推奨しているものの、わずかの人々が適当な利用を理解し、治療に実際に役立てているに過ぎない。

結紮には圧迫が強度のものと中程度のものとがある。血管が拍動するのを感じないほど強く圧迫するのを、私は強度または完全な結紮と名付ける。このような結紮は四肢切断などで血液の流れを止めるのに使う。これはまた動物の去勢とか腫瘍を除去するのに用いる。このような場合には、結紮によって栄養や熱の流入が止まり、睾丸や大きな腫瘍が小さくなり、壊死におちいり、脱落する。

中程度の結紮とは、四肢の全周をかたく圧迫するが、痛みは無く、結紮部位より末梢の動脈にある程度の拍動を許されるものを言う。このような結紮は瀉血で用いられる。このばあい、肘の上の縛りひもはそれほど固くなく手首の動脈の拍動を指で感じることができる。

人間の腕で実験することにしよう。瀉血のときのように縛りひもを使っても腕を手で軽くつかんでもよい。この実験に適する人は痩せていて静脈が太く、しかも運動の後で体が暖かく拍動が強く血液が四肢に大量にあるのがよく、このようだとすべてがはっきりと見られる。

このような状態で末梢を結紮し、我慢できる限り強く圧迫すると、結紮部位より末梢すなわち手首などで動脈は拍動しない。これと同時に結紮部位のすぐ上で動脈は膨張のたびに高まり、激しく脈打ち、あたかも潮が流れの障害物を打ち破り打ち勝つようにその近くで高まる。一言で言うと動脈は異常に充満している。このような状態で手は自然の色と外見を保っている。時間がたつと温度は少し下がるが、何も入り込んだりしない。

巻き布をしばらくそのままにしてから、少しゆるめて瀉血につかう中程度の結紮にする。そうすると手と腕はすぐに暗色になり大きくなる。静脈は膨れ上がり節くれだつ。動脈が10から12拍動すると、手はふくれあがる。すなわち、中程度の結紮によって、痛みや熱や真空の恐れその他に前に述べた原因無しに、手に血液が押し込まれ、腫れ上がる。

もしも縛り紐をゆるめる瞬間に、紐の下で拍動している動脈に指を当てると、指の下で血液が滑って動くかのように感ずる。同じように実験対象となっている人もまた暖かさや突然の血管に沿う血液の流れ、さらにそれが手全体に広がるのを感ずる。同時に手は熱くなり、腫れ上がるように感じる。

前に述べたように、強い結紮において巻き布より中枢の動脈は膨れ上がり拍動するが、末梢はこのようなことはない。中等度の強さの結紮では、これと逆に、紐の上ではなく下で、静脈が膨れて太くなるが、動脈は縮む。極端に強い圧力を加えると、紐より末梢の静脈も、腕の上部の静脈も膨れ上がらない。

これらの事実から、動脈を経て末梢に血液が入ることを、注意深い観察者は理解することができる。もしも効果的に圧迫すると血液は末端には全く入らない。手の色は変わらず、何も流れ込まない。まったく膨れ上がらない。しかし、もしも圧力を下げると、採血のときの結紮のように、血液は瞬間的に強い勢いで入り、手は膨れ上がり始める。中等度の結紮のときに動脈は拍動して血液が流れるが、強度の結紮のときに血液は拍動せず何も送り出さず、結紮部位の上部だけが膨れ上がる。静脈が再び圧迫されると、静脈を通して何も流れない。これを示していることは、結紮の下部は上部より膨れ、腕に巻き布が無いときよりも膨れている。

したがって、結紮はそれより上部へ血液の戻るのを妨げ、それより下部を膨張した状態に保つ。しかし、動脈は圧力を加えても、心臓の力と衝動によって、体内から結紮の先まで血液を送る。ここに強い結紮と中程度の結紮の違いがある。強い結紮では静脈の流れだけでなく動脈による血液の流れを妨げる。中程度の結紮では、それより末梢の脈拍の力を妨げることはなく血液を四肢に送るが、静脈を圧迫して血液が静脈を経て戻るのを大きくまたは完全に妨げる。

したがって、中程度の結紮で静脈は膨れ上がり広がり、手全体が血液で充満しているのを見て、これはどこから来たのだろうかが問題となる。結紮より先に蓄積したこの血液は静脈を経たものか、動脈を経たものか、または隠れた多孔組織を通ったのだろうか。静脈を経て来ることは考えられないし、目に見えない通路であるはずはさらにない。今まで言ってきたように動脈を経て来るより他は考えられない。結紮を取り除かない限り血液は静脈を経て心臓に戻ることはできないので、静脈を経て流れ込むことは考えられない。もしも急速に取り除くと、静脈はペシャンコになり内容を上部に排出する。同時に手はもとの皮膚色になり、腫脹や鬱血は消失する。

さらに、しばらくのあいだ中程度の結紮をして腕が膨れ青黒くなっただけでなく冷たくなっている人は、巻き布を急にほどくと、血液が戻る経路にそって肘から脇の下まで冷たいあるものが動くのを感じる。冷たい血液が心臓まで戻るのが、瀉血のときに気を失う原因ではないかと、私は考えている。失神はしばしば強健な人で多くのばあい巻き布を取り去ったときに見られ、俗に血液が回るからと言われている。

さらに、静脈が結紮部位より下部で膨れ上がり詰め込まれ、強い結紮によって緊張が下がっているときに、動脈はほとんど変化していない。このことは血液が動脈から静脈に移行したのであって静脈から動脈に移行したのではない証拠であり、二種類の血管の間に吻合があり、筋または一般に固体の多孔組織を血液が通過することを示している。さらに、肘より上で中程度の結紮をすると、すべての静脈は一緒に膨れ上がることから、静脈同士に連絡のあることが解る。もしも一本の小さい静脈をメスで切開すると、すべての静脈は急速にペシャンコになり、ほとんど同時に出血は止む。

これらの考察から、結紮によって血液を集めることの本質およびおそらく一般に血液の流れを、誰でも理解することができるだろう。たとえば巻き布を肘より上にして静脈を中程度に圧迫すると、血液は逃れることが出来ず、血液は心臓の力によって押し込まれ、それによって静脈は血液で充満して膨れ上がる。熱、疼痛、真空力ではあり得ない。このような場合は一部分だけであり、異常に膨れ上がったり大量の血液が流れ込んだりはしないし、筋肉が傷つけられ血管が破れたりする。熱、疼痛、真空力の影響のようなものは考えられないし、認められない。

その他に、結紮は疼痛、熱、真空力無しに血液を集めることができる。もしも疼痛が原因だったら、腕を肘の上で結ぶことによって、巻き布より下になる手や指が腫れ上がりその静脈が拡張することがあり得ようか。巻き布の圧力は確かに血液が静脈によってそこに達するのを妨げる。それでは結紮より上では、何故に静脈の膨張や充満が見られないし、血液を誘い込み流れ込む症状が見えないのだろうか。血液が大量に力をもって入りはするが出ることはできないのは、巻き布より下、手および指に、血液が異常に集まって膨れ上がる明白な理由である。

アヴィセンナが言っているように、入るのは自由だが出ることが出来ないことによる、著しい過剰がすべての腫脹の原因であろうか?局所の炎症で、腫脹が続くがまだ最盛期ではなく、その部分で拍動が感じられ、とくに急性期で腫脹がふつう急速なときには、同じことが起きているのではないだろうか。しかし、これがすべての原因であるかどうかは、討論を待とう。私自身に起きた例はこの理由によるのであろうか。あるとき馬車から放り出されて前頭部を打ったことがある。このときには、脈拍数20以内の早い時期に、熱も痛みも感じないうちに、鶏卵大の瘤ができた。前頭部には側頭部から動脈が向かっているので、動脈が近く血液が異常な力と速度で打撲部位に集まってきたと思われる。

ここでなぜ我々は瀉血にさいして、静脈穿孔より上の部位で結紮を行い、下の部位で行わないかを理解することができる。もしも血流が上から来るのであって下から来るのでないとしたら、結紮は役に立たないだけでなく、邪魔になるであろう。もしも血液が静脈によって上部から下部に下がるのだったら、血液を十分に瀉血するためには、結紮を穿孔部位より下にすべきであろう。しかし、血液は末梢の動脈から末梢の静脈に流れ込み、末梢の静脈からの血液の戻りが結紮によって妨げられるので、静脈は充満し拡張する。したがって、静脈を突然に穿孔すると、血液を力強く遠くまで放出することができる。しかし、結紮をゆるめて帰り路を開くと、血液はポタポタとしか出なくなる。すべての人が知っているように、静脈切開のときに巻き布を弱くし過ぎたりあまりにも強く縛ると、血液の放出は力がなくなる。その理由は、まりにも弱いと帰り道が充分に閉鎖されないし、強すぎると流入の経路、すなわち動脈が妨げられるからである。





12.第二命題から血液循環の存在が示された


これまで述べてきたことは正しいとしたら、他の点、すなわち心臓を血液が絶えず通過するということも証明しよう。血液は動脈から静脈に流れるのであって、静脈から動脈に流れるのではない。さらに、結紮を行って腕の皮膚静脈を穿刺することによって体内の全血液を流失させることができる。しかもさらに、血液は自由に急速に流れるので、腕の結紮部位より末端部分に穿刺以前からあった血液だけでなく、動脈と静脈の両方の体全体の血液が流出するのを見る。

したがって第一に、血液は衝動によって送られ、結紮の下に圧入することによるものである。血液は力を伴って流失し、この力は心臓の脈拍の力から受け取るものだからであり、血液の力と運動はすべて心臓だけに由来するものだからである。

第二に、流入は心臓から進み、大静脈経由の道で心臓を通る。結紮以下の部位に入るのは動脈経由であって静脈経由ではないし、動脈は血液を心臓の左心室以外から受け取る以外にはあり得ず、静脈から受け取ることはないからである。結紮が充分にされているのでこのように大量の血液が1本の静脈から引き出されることはないし、心臓の拍出力によるのでなければ、このように激しく容易に素早く流出することはあり得ないからである。

すべてのことが上に述べた通りであるなら、血液の量を計算し、循環運動について論ずることできる。誰か瀉血にさいして自由に流出させるようにすると、半時間ほどで血液の大部分は失われて失神と虚脱が起きるであろうし、動脈だけでなく大静脈も空になってしまう。この半時間に失われたと同じ量の血液が、大静脈から心臓を経由して大動脈に移行したと推定することは理にかなっている。さらに、片方の腕で何オンスの血液が流れるか、中程度の結紮で20または30の脈拍でどれほど流れるか、を計算すると、他の腕で同じ時間にどのくらいの血液が流れるか、両側の下肢を通し、首の両側を通し、全身の動脈、静脈を通して、どれ程の血液が流れるかを、推定することができる。

これらはすべて新鮮な血液を供給され、血液は肺と心室を通り、大静脈に由来しなければならない。ここで推定された血液量は摂取された食物から直接に供給され得ないし、その部分の単なる栄養にしては著しく多い。

瀉血をしていて、議論の問題となっている真理が他の方法で確認されることがある。腕を縛り穿刺を行っているときに、恐怖またはその他の理由で失神し、心臓はゆっくりと拍動し、血液は自由に流れず、滴下するようになる。強く結紮によって、血液の流れに大きな抵抗が生じ心臓の力が弱くなり拍出力が低下することによって、結紮の下を血液が流れなくなる。さらに心臓が弱くなり活気が無くなるために、心臓を通して血液が静脈から動脈に充分量を供給しなくなる。同じ理由で、女性の月経や種々の原因による出血が減少する。今や逆の状態が起き、患者は恐怖にうち勝ち、勇気を快復し、脈の強さが増加するので、動脈はより強く拍動し、血液を結紮した部分に送り込むようになる。その結果、血液は静脈の穿刺部位から噴きだし、連続的に流れ出す。



13.第三命題の証明とそれによる血液循環の確認


これまで、体の中心部において肺と心臓を通過する血液量、および同じように全身の末端において動脈から静脈へ移行する血液量、について述べてきた。しかし、説明しなければならないことは、血液がどのようにして末端から静脈によって心臓へ還るか、および静脈が末端から中枢へ血液を運ぶ唯一の血管であるのはどのようにしてか、である。

もしもこのような説明ができたら、血液循環についての3つの命題は明瞭、確定的、かつ明らかに真実となり、十分の信用が得られるであろう。説明しなければならないことは、静脈腔にある弁、その役割、感覚で確かめられる実験によって、充分に明らかになるであろう。

学識ある解剖学者で尊敬できる老人であるファブリチオ、および学識あるリオランが考えているように、デュボア(シルヴィウス:1478-1555)は静脈内に膜状の弁があることを述べた人である。この弁は、静脈の内膜がシグマ状(半月状)に盛り上がり離れている、きわめて繊細な部分である。弁と弁の間隔はいろいろで、人により異なる。静脈の側壁に結合しており、静脈の根幹に向かって上向きとなっている。2枚の弁(ふつう2枚からなる)は向かい合い、相互に接触している。したがって、何かが根幹から枝に向かって、すなわち大きい血管から小さい血管に向かって、通ろうとすると、まったく通過できないようにする。先行する弁の凹部の中央は続く弁の凸部に対応するようになっており、等々となっている。

これらの弁の発見者はその用途を正しく理解しなかったし、その後の解剖学者も何も寄与しなかった。血液がその重さで下に流れ落ちるのを防ぐために弁があると言ったら、これは正しい解釈ではない。頚静脈の弁の端は下に向いているので、血液が上に流れるのを妨げている。一言で言うと、弁は決して上を向いているのではなく、常に静脈の根幹、すなわち心臓の方向を向いている。私も他の人々も腎静脈や腸内膜静脈の弁で、端が大静脈や門脈に向いているのを見ている。私も他の人々も腎静脈や腸内膜静脈の弁で、端が大静脈や門脈に向いているのを見ている。

さらに、動脈には弁の無いこと、および直立によって重力の影響があるとは思われないイヌ、ウシなどにおいて、仙骨の発端にある脚静脈の分岐部や腰部に近い静脈の枝に弁のあることを、追加しよう。

ある人々の言うように頚静脈の弁は脳卒中を防ぐためにあるのではない。寝ているときに頭は頸動脈の内容物によって影響されるからである。また弁は血液を分岐路に廻したり、小さな幹静脈や枝に留めて、全部が開いた大きな経路に流れて終わないようにするものでもない。分岐の有るところに多いが、分岐の無いところにもあるからである。体の中央からの血液の流れを遅くするためのものでもない。大きい血管から小さい血管に入ると、大きな流量から分かれ、源泉から遠ざかり、暖かいところから寒いところに行くので、流れは自然に充分に遅くなるからである。

弁は血液が大きな静脈から小さな静脈に流れないためにある。これらを破裂させたり静脈瘤を作らせたりしないためである。血液が中央から末端に進まないで、末端から中央に進ませるためにある。したがって、精巧な弁は正しい方向には容易に開くが、逆の運動は完全に妨止する。もしも何かが逃げる、すなわち一つ上の角(つの)による防止がたとえば角の間隙などにより不完全のばあいには、斜めにある一つ下の弁の凹部によって受け止められ、それ以上進行することはない。

私はこのことを静脈の解剖でよく見てきた。ゾンデを太い静脈から細い枝に入れようとすると、十分に注意しても、弁があるために先まで入れることが出来なかった。ところが、逆に反対の方向、すなわち外側から内側に、細い枝から太い幹に向けては、簡単に入れることが出来た。多くの場所で2枚の弁は一組になっていて、押し上げられると端が接触して一つになる。2枚の適合は正確なので、眼で見ても他の方法でも間隙をみつけることができない。もしもゾンデを末端から中央に向けて入れると、弁は河の水門のように簡単に脇に押されて開く。このような機構は、頭に向かっての上向きにしろ、足に向かっての下向きにしろ、腕に向かうにしろ、心臓および大静脈からの血液は一滴も通ることができない。大きな静脈から小さい静脈への血液の運動は妨げられ、細い枝から大きな枝に向かう運動が促進される。ともかく、自由な開かれた通路である。



しかし、瀉血のときのように肘より上で腕を縛ることによって(図1、A,A)、この事実は一層明らかになる。静脈に沿って、とくに労働者や静脈が太い人で、一種の節と言うか盛り上がり(B,C,D,E,F)を見ることができる。このことは枝の在る所(E,F)だけでなく、無い所(C,D)にも起きる。この節すなわち盛り上がりは弁によるもので外から見ることができる。どれか一つの弁の上流の部分H , O(図2)で血液を押し、指で下に向けてしぼると、上からの血液の流れは見られず、指と弁Oの間の静脈は消えてしまう。しかし弁の上(O,G)の部分は十分に広がって太くなる。血液はこのように押し下げられて静脈は空なる。弁Oの上の太くなった静脈に他の手の指を置いて(図3)、下向けに押し下げても、弁を越えて血液を押し下げることはできない。いくら押す力を強くしても、指と弁の間の静脈はさらに太くなり、弁より下の静脈は相変わらず空である(図3,H,O)。

したがって、静脈の弁の機能は動脈や肺動脈の開口部にある半月弁と同じで、動脈に送り出された血液が逆戻りしないためである。

さらに、腕を前のように縛って静脈が充満し広がっているとしよう。もしも静脈上の一点を指で押し(図4,L)、他の指で次の弁(N)まで血液を上方向にしぼると、静脈のこの部分(L,N)は空になることに気づくであろう。まさしく図2で見たように、血液は逆には流れない。しかし、最初に置いた指(図2のH;図4のL)を取り去ると静脈は末端から充満し、腕は図1のDCのようになる。

静脈の血液は下部すなわち末端から心臓の方向に進む。血管内をこの方向に流れ、逆方向に流れないことは、明らかである。ある部分で弁がこのように正確には作用しなかったり、弁が1枚だけだったりして、中心部からの血液の逆流が起こらないようにできないとしても、多数の弁は明らかにこのようにすることができる。たとえうまく行かない場合でも、それに続く弁が多数あり完全に働くこと、などによって補うことができる。このように、一言で言うと、静脈は心臓に戻る血液の自由で解放された水路であって、心臓からの血液を分配することは出来ないようになっている。

しかし、次のことに気がつく必要がある。腕を縛って静脈が膨れ上がり弁がはっきり見えるようになる。ある弁(図4,L)の上に指を置いて圧迫して、血液が手から心臓方向に流れないようにして、他の手の指で静脈の血液を次の弁(図4,N)の先までしぼり出す。ここで血管は空になる。しかし、Lにある指を放すと、静脈はすぐに下から満ちてくる。指で再び圧迫し、前と同じように血液をしぼり出し、下部の指を放すと、血管は前と同じように太くなる。短時間に、たとえば千回も繰り返すとしよう。

ここでその弁を越えて押し上げた血液の量を計算し、この推測値を千倍すると、静脈のある部分を通過する血液量がわかる。今や貴方は血液が循環し、それがいかに速い運動であるかを確信したと思う。この実験は「自然」にたいする暴力であると言う人があっても、次のことは疑いの余地がない。すなわち、静脈のできるだけ長い部分をとって上と同じような実験を行い、どのように速く血液が上方に流れ、下方から血管が充満してくるかを調べると、同じ結論に達することができる。

14.血液循環についての結論



ここで、血液の循環についての私の見解を要約して、ひろく一般に知ってもらうことが許されるであろう。

議論と観察のすべては、血液が肺を通り、心室の力によって心臓を通り、体の全体に分布し、そこで静脈と筋の孔に入り、静脈を末端から中心に、小さい静脈から大きな静脈に流れ、そこから大静脈と右心室に放出される、ことを示している。動脈による流出および静脈による還流の量はあまりに多く、食物から吸収されたものでは供給できないし、単に栄養のために必要な量よりもあまりにも多い。次の結論が絶対に必要である。すなわち、動物体の血液は循環させられ終わり無き運動をしていること、これは心臓が脈拍によって行っている作用すなわち機能であること、そしてこれこそ心臓の運動と収縮の唯一無二の目的であること、である。



15.血液循環がさらに確認された

血液循環が適切で必要なことだという常識的な理由付けをさらに示しても、不遜ではないだろう。

まず第一に、死は熱の不足による腐敗である。すべての生きている物は暖かく、死んでいるものは冷たい。したがって、どこかに熱の場および源泉、熱の家と炉があり、ここで自然を慈しむもの、自然の火の源が蓄えられ保存されている。ここから熱と生命が泉から分配されるように全身に分配されている。これから生命維持に必要なものが引き出される。これに消化と栄養、植物性のエネルギーが依存している。心臓こそこの様な場所であり、生命の中心である。このようなことは誰も否定しないであろう。

したがって、血液は運動を必要とし、まさしく心臓に再び戻るような運動が必要である。アリストテレスが言っているように、源泉から離れて体外に送られ運動しなくなると、血液は凝固するからである。何故かと言うと、運動はあらゆる環境において熱と精気を発生させ、静止はこれらを消失させる。したがって、極端に寒いときや外部で、血液は濃くなり凝固し、死体と同じように精気を失う。そこで、熱と精気および保持に必要なすべてのものを源泉から受け取る必要があり、元に戻ることによって血液は新しくなり復活しなければならない。

寒いときに四肢が冷たくなり、鼻や頬が蒼くなり、下半身に鬱血した血液が青黒くなることを見ている。四肢は同時に不活発になり、したがって殆ど動かなくなり、活気をほとんど失ったように見える。今や血液が新しく導入されて源泉からの熱に触れると、生命の熱と色が戻る。しかし、熱と生命が殆ど無くなった部分がどのようにして取り戻すことができるのであろうか。また、凝固した冷たい血液で満ちている血管が、それらを取り除かないでどうして新鮮な栄養物、すなわち新しくなった血液を、導入することができるのであろうか。

心臓こそが冷え切った血液を生命と熱を元に戻す源泉であって、暖かく精気で満たされた新しい血液は動脈で送り出されるのでない限り、冷やされ弱められた血液を追いやり、すべての小部分が失った熱とほとんど使い尽くされた精気を元に戻すことはできない。

したがって、心臓に傷害が無ければ、体の他の部分の生命と健康は回復するであろう。しかし、心臓が冷やされたり何かの重い病気で打ちひしがれると、動物の全組織は病にかかり破壊されるであろう。アリストテレスが言っているように、源泉である心臓が損なわれると、それ自身とそれに依存するものの両方に役立つものは、心臓以外にはないからである。

ついでに述べておくが、悲しみ、愛、羨み、心配、その他の心の状態に、痩せと消耗、体液の異常や未熟が伴い、それによって各種の病気が起き、人体が使い尽くされる。痛みまたは楽しみ、希望または恐れ、を伴うすべての心の異常は、感情の高ぶりの原因であり、心臓に影響する。これは自然の状態、すなわち体温、脈拍その他に変化を起こし、栄養物に初から影響し、全般的に力を低下させる。四肢や体躯にいろいろな形の不治の病が起きるのは不思議でない。このような状態において、全身は栄養不良と自然熱の不足を来しているからである。

さらに、すべての動物は体内で消化された食物によって生きているので、消化と配分は完全であること必要である。したがって、消化を完成し体内の各部分に配分する場所と受け入れ場所がなければならない。これが心臓である。何故かと言うと一般に使われるために血液を保っているのは心臓だけである。他のすべての臓器は特別な私的な目的に血液を受け取っている。心臓が自分のために冠状動脈静脈で血液を受け取っているのと全く同じである。上に述べたのは心臓が心房や心室に血液を貯蔵していることである。次に心臓は血液を体の幾つかの部分に適当量づつ配分するように位置し作られている唯一の器官である。この配分量はそれぞれへの動脈の大きさによって決定される。心臓は血液の必要に応じる倉庫、言い換えると源泉である。

さらに、血液の配分と運動のためには、衝撃と力、および衝撃と力を与えるものたとえば心臓が必要である。なぜかと言うと、テーブルの上の水滴が集まって大きくなるように、血液は源泉に集まり、似たもの同士で集まり、寒さ、驚き、恐れ、その他によって影響されるからであり、また、四肢の運動および一般に筋肉の圧迫によって、血液は毛細静脈から小さな枝へ、そこから大きな幹へ流れるからである。

したがって、中心から末梢に向かう流れに反対する弁は存在しないにもかかわらず、血液は中心から末梢に向かうよりは、末梢から中心に運動するのが容易である。それ故、源泉を出発して狭く冷たい経路に入り、(末梢から中心への)自発的な方向に逆らって流れるために、血液は力と衝撃が必要である。これこそ心臓であり、心臓以外ではあり得ず、心臓は既に説明したように働く。



16.その他の結果による血液循環の証明


まだ問題が残っている。証明されたとみなされている(血液循環の)問題の結果として生じたものである。これはわれわれの信念のために帰納的(a posteriori)に役立てるべきものである。これらは疑わしく曖昧であるが、(血液循環の)問題にとって理由および原因となるものである。

これらは、伝染、傷口感染、蛇や狂犬による咬み傷、性病その他である。最初に感染した場所が正常であるのに、全システムが中毒していることが、しばしば見られる。ときには性病が性器には何の障害もないのに、最初に肩の痛みや頭痛やその他の症状の出現することがある。また、狂犬による傷が治った後で、熱その他の危険な症状の出現することが知られている。したがって、特定の場所における感染が、血液の戻ることによって心臓に運ばれ、心臓によって送られて、全身を感染させる。

三日熱マラリアで病原はまず心臓を襲い続いて心臓と肺に固定する。患者はあえぎ、呼吸困難となり、運動が不能になる。これは生命成分が押さえつけられ、血液は肺に鬱血し、濃くなるからである。血液は肺を通過できなくなる。(私は三日熱発作の初期に死んだ人を解剖したことがある。)このとき、脈拍は常に速く、小さく、しばしば不整脈となる。しかし熱が増加すると、症状は収まってくる。通路が開かれ、通過し、全身の体温が上がり、脈拍は満ちて強くなる。熱発作が完成すると、心臓に生じた異常な熱は次に動脈を経て病原物質と一緒に全身に送り出される。このようにして、自然によって克服され消失させられる。

さらに外用薬が内服薬と同じように有効であることを知っている。これによって我々が論議している問題が確認される。コロチントやアロエは下痢を起こし、カンタリスは利尿作用があり、足の裏にニンニクを塗ると去痰力があり、強心剤は力を与える、などの無数野例をあげることができる。したがって、静脈は外用したものを開口から吸収し血液とともに運ぶと言っても、理屈に合わないことではないであろう。

これは腸間膜静脈が、腸から乳糜を血液とともに肝臓に運ぶ、と言うのと同様である。なんとなれば、腹部動脈および上下の腸間膜動脈を通って腸間膜に入った血液は腸に進み静脈に引きつけられた乳糜と一緒に、そこから数多くの分枝によって肝臓の門脈に戻り、大静脈に入る。これらの静脈の血液は他の静脈と色や粘性は同じであり、これまで真理と言われてきたこととは異なる。

実際、われわれは毛細管において乳糜は上方へ血液は下方へというような、二つの逆の運動が起きていると考えることはできない。このようなことはまず起きることはないし、まったく不可能と考えなければならない。物事は自然の完全な摂理によっているのではないだろうか。等量づつ、乳糜が血液と混じり、粗製のものが精製されたものと混じると、結果は調理(concoction)、変成、血液生成ではない。それぞれが活性と不活性であるか、混合物であるか、または二つの中間物質である。これは葡萄酒を水やシロップと混ぜたときと同じである。非常に少量の乳糜を大量の循環血液と混ぜると、乳糜の割合は問題とならない。1滴の水を1樽の葡萄酒に混ぜたり、逆の割合のときに、アリストテレスが言っているのと同じである。全体は混合物ではなく、葡萄酒または水である。

動物の腸間膜静脈には糜汁または乳糜と血液の混合物または単品が有るのではなく、血液だけが存在する。その色や粘性その他の性質は一般の血液と同じである。しかし、気がつかない程度に少量ではあるが乳糜または不完全消化物が血液に混じっているので、自然は肝臓を中間に置いている。肝臓の曲がりくねった経路で血液は遅くなりさらに変化を受け、未熟で粗な状態で心臓に達して生命物質を傷害することがないようにしている。

したがって、胎児では肝臓を必要とはせず、臍静脈は門脈に存在する孔または吻合を通る。胎児の腸からの血液は肝臓を通過することはなく、上記の臍静脈を経て、胎盤からの自然血液と混じって、直接に心臓に流れ込む。したがって、胎児の発生において、肝臓はもっとも遅くできる臓器である。胎児で四肢が出来上がり、生殖器すらできているのに、肝臓はほとんど痕跡すらない。実際、静脈以外は心臓もふくめてすべての部分が白くて赤い色が無いときに、肝臓で見るのは血管にある血液だけである。これはあたかも挫傷または血管損傷が起きているように見える。

しかし、卵がかえるときには2本の臍血管が見られる。一本は卵白から肝臓を通過して心臓に達している。もう1本は卵黄からで、門脈に終わっている。雛は完全に卵白によって作られ栄養を補給される。しかし、完成後および殻から出た後では、卵黄によって養われるのであろう。生まれた後でも雛の腹部には卵黄が見つかる。卵黄は他の動物の乳に相当する。

しかし、これらのことは「胎児形成についての観察」で述べるのが適当であろう。そこでは次にあげることなど多くの問題を論ずることになる。すなわち、ある部分が最初に作られ完成され、ある部分が最後になるのは何故か?幾つかの部分のうちでどれが他の原因になるか?さらに心臓に特有な問題もある。たとえばアリストテレスが書いているように、他の部分に先がけて心臓が形成され、生命をもち、動き、感覚をもつ、のは何故か?また、血液が他に先がけるのは何故か?どのようにして血液が生命物質と動物物質を持つようになり、動き回る傾向をもち、あちらこちらに送られ、心臓に至るのだろうか?同様に、脈拍を考えると、ある種の脈は死の兆候で、他のものは回復の兆候なのだろうか?すべての種類の脈のうちで何がそれぞれの原因および兆候であろうか?同様に分利や自然治癒の理由を考えなければならない。栄養および栄養の配分、および種々の排出についても考えなければならない。

最後に医学、生理学、病理学、症候学、治療学を考え、我々が幾つの問題に答えることができ、幾つの疑問に答えられ、我々が主張している真理、すなわち我々が照らした光、によって幾つの曖昧な問題が解決されるかを考察してみよう。私がこれまで進み広範囲に述べてきたこの領域はあまりにも広く、意に反して厚い本になるだけでなく、一生涯をかけても完成させることは出来ないであろう。

したがって、ここでは次の章で、心臓および動脈の解剖にさいして気がついたそれらの効用と原因についてを述べるに止めよう。私が論じている真理から光を受け、真理をさらに明白にした多くの事柄に次章で出会うことになるであろう。そして、実際にこの真理を確認し、主として解剖学的な論点から明らかにしよう。

論文「脾臓の役割についての観察」で述べるべきではあるが、ついでにここで述べても不適当ではないであろう。膵臓を通過する脾静脈およびその上部から、冠状、胃、胃大腸膜の静脈が分かれ、すべて多数の枝となって胃に分布する。これは腸間膜の血管が腸に分布するのと同様である。同様に、脾静脈の下部は結腸および直腸の後ろを通って痔静脈に至る。

これらの静脈によって戻る血液は未熟な消化汁を運んでいる。一つは胃からのもので希薄でまだ完全に乳糜化していない。もう一つは濃厚で土のようで大便由来のように見えるものである。これら二つは脾静脈に集まり、逆の性質をもつものが混じり合う。自然はこのように完全に逆の性質をもつために消化(coction)され難い2種類の消化汁を混ぜ合わせ、大量(脾動脈の大きさを考えると大量と考えられる)の暖かい血液で希釈し、高度に前処理された状態で肝臓の入り口に運ぶ。この両方の汁の欠点は静脈の配置によって追加し補われる。



17.血液の運動と循環の確証


すべての動物で心臓がはっきりと独立なものであるわけではない。ある種の動物たとえば植物性動物は心臓を持たない。これらの動物は冷い種類で、大きな塊となり、柔らかな組織からなり、均一であったり、構造が簡単だったりする。例をあげると、地虫、ミミズ、その他腐敗物から発生するものではっきりした形を保たないもの、である。これらは心臓を持たない。栄養を体の末端に送る必要が無いからである。体は融合しており均一で手足を持たない。したがって全身の収縮と弛緩によって食物を取り込み、排泄し、動かし、取り除く。

カキ、貝類、カイメン類や植物性動物は心臓を持たない。全身が心臓として使われ、動物全体が心臓であるからである。昆虫をふくめて多数の動物は小さいので心臓をはっきりと見ることはできない。しかし、ミツバチ、ハエ、クマバチその他で、拡大鏡を使って何かが拍動しているのが見える。シラミで同じものが見えるようである。透明なので同じ拡大鏡を使うと食べ物が黒い点のように腸を通っているのを見ることができるようである。

血液が蒼白色で冷たい種類の動物、たとえばカタツムリ、マキガイ、エビ、貝類などで拍動しているものがある。これらは一種の袋、心臓の無い心房のようなもので、実際ゆっくりと拍動し、暖かい季節でなければ観察することができない。これらの動物では、種々の臓器があることか、物質の密度によるのか、栄養液を配布するのに衝撃を必要とするので、拍動しなければならない。しかし拍動の数は少なく、寒いときにはまったく無いときもある。これは次のような曖昧な性質に適したものである。あるときは生きているように見え、あるときは死んでいるように。あるときは動物のように活発で、あるときは植物のように見える。

このことは冬には隠れていて、死んでいるようにし、一種の植物としての存在をする昆虫にも成立する。赤い血液を持つ動物、たとえばカエル、カメ、ヘビ、ツバメにも成立するかどうかは疑いがある。赤い血液をもつ大きな温血動物では栄養液を推進する必要があり、おそらくかなりの力を持っている。サカナ、ヘビ、トカゲ、カメ、カエルその他の類には、心房と心室の両方をもつ心臓が存在する。したがって、血液のある動物には心臓を持たないものはないし、心臓の推進力によって栄養液を遠くに力強く速く送ることができる。これは下等動物の心房のようにただ撹拌しているのではない、とアリストテレスが観察したのは完全に正しい。さらに大きく、温血で、もっと完全な動物では、暖かく精気に富む血液を大量にあり、大きく充実した体を持っているので、栄養液を強く速く推進させるたみに、大きく強く筋肉性の心臓を必要とする。さらにもっと完全な動物は、食物を完全に消化し最高の完成をしなければならないので、もっと完全な栄養と大量の自然の熱を必要とする。そのために、肺と第二の心室を必要とし、栄養液はここを通過しなければならない。

したがって、肺を持つ動物は心臓に2つの心室を持つ。一つは右心室でもう一つは左心室である。右心室のあるときは必ず左心室がある。しかし逆は真ではない。左心室はあるが右心室の無いことがある。ここで左心室と呼んでいるのは位置から言うのではなく、肺だけに血液を送るのではなく、全身に血液を送るという機能で呼んでいる。

したがって、左心室は心臓の主要部分である。これは中央に位置し、強く標識され、注意深く作られている。心臓は左心室のために作られているようで、右心室は従属している。右心室は心尖まで達せず、壁は3分の1ていどの厚さなのでそのていどの力しか無く、アリストテレスが言ったように、ある意味で左の付属物である。しかし、左心室に物質を供給するだけでなく肺に栄養物を与えているので、容積は大きい。

しかしながら注意すべきこととして、胎児ではこのような2つの心室の間の違いは見られない。双子の木の実のように多くの点でほとんど等しく、右心の心尖は左の心尖に達していて、心臓は頂点が2つある円錐のように見える。これは何故かと言うと、胎児では前にも述べたように、血液は右心室から左心室へ肺を通らずに、大静脈から大動脈に直接に卵円孔と動脈管を流れて、全身に配分されるからである。

したがって、両方の心室は同じ役割を持っているので、構造も同じである。肺が使われるようになって、上に述べた2つの経路が閉じると、左右の心室のあいだの力その他の差が明白になる。このようになると、右心室は血液を肺に送るだけであるが、左心室は全身に血液を送らなければならない。

さらに心臓の中には数多くの支柱がある。筋肉の柱や繊維のバンドの形をしており、ありストテレスが「神経」と呼んだものである。これらはいろいろ張り渡されており、はっきりしているものもあるし、壁や隔壁にある数多くの孔やくぼみからなる溝の中にある。それらは一種の小さな筋で、心臓に追加しているもので、より強力な完全な収縮を行い、血液を完全に送り出すのを助けている。これらは船の綱具の良くできた設備と同じであり、心臓収縮にあたって支柱となり、心室から血液を送り出すのに有効である。

ある動物では他よりも明らかでないことで説明される。それらは左心室では右心室より数が多く強いことに示される。ある種の動物では左心室にはあるが、右心室には存在しない。ヒトでは右心室にくらべて左心室に多く、心房より心室に多い。ときには心房にはまったく存在しない。大きな筋肉質の農夫には多いが、痩せた体質の婦人には少ない。

心室の内側が平滑で筋肉や筋性の束または溝を持たない動物、たとえばウズラやニワトリのような小さな鳥、ヘビ、カエル、カメ、大部分の魚、では繊維の束が無く、心室に三尖弁が無い。

ある動物では右心室の内部が平滑であるが、左心室には繊維の束がある。これらは大きな音を出し大量の空気を必要とする動物である。これについては、「呼吸論」を参照されたい。

前に述べたように、心室は拍動し、収縮し、心室に血液を送る。したがって、心室があれば心房は必要である。一般に信じられているように血液の源泉すなわち倉庫であるだけではない。もしも単なる倉庫だけだったら拍動に何の意味があるだろうか。

心房、とくに右心房は、血液の最初の「動かし手」である。これはすでに述べたように「最初に生まれ、最後に死ぬ」ものである。したがって血液を心室に送る役に立っている。絶えず収縮し、すでに動いている血液を容易に強く送り出している。これは丁度、ボールプレーヤが球をただ投げるよりは、リバウンドしたものを打つ方が、強く遠くに打つことができるのと同じである。さらに一般の常識とは違って、スポンジが最初に圧縮されてもとの条件に戻るときは別として、心臓その他は拡張することによって何かを内腔に引き寄せることはできない。

動物では局所的な運動は、ある部分の収縮から始まりそれを出発点とする。前に述べたように心房の収縮によって血液は心室に送られ、そこから心室の収縮によって送り出され分配される。局所的な運動に関連して、(アリストテレスのいわゆる)運動精気を持っているすべての直接の運動器官はまさしく収縮装置である。ここで神経(nevron)という言葉は「刺激を受け取り収縮する」から来ている。もしも私の観察から運動器官について述べることができるとしたら、アリストテレスが筋肉についていかに詳しかったかを明らかすることができるであろう。彼は動物によるすべての運動を神経または収縮装置によるとし、心臓のこれらの小さい束を神経と呼んだ。

我々が持っている問題、すなわち心房のもつ心室を充満させる役割、に進もう。心臓が固く緻密であるほど、その壁は厚く、心房は心室を充満させるために強く筋肉質である。逆も真である。このことは事実である。魚のように心房の代わりに血赤色の膀胱、すなわち血液を入れた薄い膜からなることがある。ここで心房の代わりをするものは薄く大きいので、心臓の上にぶらさがるというか浮いているように見える。コイその他の魚のように袋にもっと肉があると、肺にかなりよく似たものになる。

体格ががっしりしていてどっしりした男子の右心房は強く内面に束や種々の繊維が絡み合っているので、他の人の心室と同じ強さのように見える。このように人によって大きな違いのあることに私は驚いている。しかし、胎児で心房は不釣り合いに大きいことが観察される。これは心臓が現れる前から、または心臓があっても充分に機能をしていない時から心房があり、前にも述べたように心臓全体の役をしていたからである。

胎児の形成で見たことは、前に述べたように(アリストテレスは孵化卵で研究したように)この問題の解決に大きく寄与する。胎児がまだ柔らかいムシのような時、よく言われるように乳の中にいる時)には、血液の点、すなわち臍静脈の広がった場所として拍動している小嚢が見えるだけである。後になって胎児の外形がはっきりして体のようになると、小嚢は肉がつき丈夫になり、場所が変わり、心房となる。この上に心臓が芽を出すが、まだ機能を果たさない。胎児がさらに発達して骨がはっきりし運動できるようになると、拍動する心臓を持つようになる。そうすると、前に述べたように両方の心室によって大静脈から動脈に血液を送るようになる。

自然は完全であり神聖であるので、無駄なことはしない。必要の無いときに心臓を与えないし、機能が必要になる前に作ることはない。しかし、すべての動物は発生において共通の段階(卵、ムシ、胎児)を通り、完成する。これらの点は胎児の形成についての他の論文で、数多くの観察をもって確認することにしよう。

最後に、ヒポクラテスがその著「心臓」において心臓を筋肉と呼んだのは理由がある。筋肉と心臓の作用は同じである。収縮して何ものかを動かす。ここでは血液の推進力である。

さらに、一般に筋肉の場合と同じように、心臓の作用と役割を、繊維の並びと一般構造から論ずることができる。すべての解剖学者はガレノスに賛成して、心臓は繊維が互いにまっすぐ、斜め、横に走っていることを認めている。しかし煮た心臓では繊維の並びは異なっている。側壁と隔壁の繊維は括約筋のように輪状である。柱のものは縦軸に延び、長軸に沿って斜めである。したがって、すべての繊維が同時に収縮すると、心尖は柱によって底部に引き寄せられ、壁は輪状に引きつけられて球状になる。一言で言うと、収縮して心室は狭くなる。したがって、心臓の作用は収縮そのものであり、役割は血液を動脈に送ることである。

アリストテレスが言っている心臓の重要性や問いかけについて我々は同意せざるを得ない。問いかけとは、脳から知覚や運動を、肝臓から血液を、受け取っているか、心臓が静脈や血液の源泉であるかどうか、である。これらの問題提起に賛成する人は、主な論点を見落とすか正しく理解していない。主な論点とは、心臓は存在する最初の部分であることと、脳や肝臓が作られ、はっきり出現し、少なくとも機能を果たす、よりも以前に、その中に血液、生命、感覚、運動を持つことである。心臓は体より前に、一種の内部の生物のように、運動する器官として出来上がっている。最初に作られるものとして、自然は心臓に仕事場および住所として全動物体を作り上げ、栄養を与え、保存し、完成させるように命令している。国家の王が最高の権威を持ち国を治めているのと同じように、心臓はすべての力の源であり基礎であり、動物体のすべての力はこれに依存している。

動脈に関連する多くのことは、この真理をさらに説明し確証する。肺静脈は(著者は静脈性動脈として動脈の一つに数えている)何故に拍動しないのだろうか?肺動脈(著者によると動脈性静脈)が拍動するのは何故か?動脈の拍動は血液の衝動力によるからである。動脈壁は静脈壁と厚さや丈夫さが大きく違うのは何故か?心臓の衝動や血液の流れによるショックを防ぐためである。したがって、完全なる自然は無駄なことをせず、すべての状態において満足させるものであるので、心臓に近ければ近いほど動脈は静脈と構造が大きく異なる。ここではより強くより靱帯類似である。これに対して手や足や脳や腸管膜や睾丸のような体の末梢では、動脈と静脈は似ていて目で区別できないほどである。

これは次のような理由によるものである。心臓から遠ければ遠いほど力が弱まるので、心臓からの拍動が弱いからである。これに加えて、幹線および枝を満たすために必要な心臓の衝動力は脇にそらされ分けられ枝で減少し、その結果として動脈の毛細管部分は静脈と違わないようになる。これは構造によると言うよりは機能に基づくものである。これらは心拍がふだんより激しいときを除くか、または小血管が他より広がっている場合を除いて、拍動を示さない。

歯や炎症腫脹や指に脈拍を感ずるときがある。別のときにはそれをまったく感じない。このような簡単な症状によって、ふだん頻脈の若者で発熱があるかどうかを確かめることができる。同様に若い敏感な人で指を圧迫することによって、発熱中の頻脈を知ることができる。一方、失神、ヒステリー、衰弱状態、瀕死状態などで心拍が弱いときには、指だけではなく手首やこめかみですら脈を感ずることができない。

四肢の切断や腫瘍の除去や傷で、出血が激しいのは動脈からであることに、外科医は注意しなければならない。しかし常に噴出するとは限らない。小動脈は必ずしも脈動するとは限らないからである。とくに結紮しているときには。

同じ理由で、肺動脈は動脈の構造を持っているが、大動脈のように静脈と厚さが大きく異なっていない。肺動脈が右心室からの衝動力を受けるよりも、大動脈は左心室からの衝動力が強く、肺動脈の壁は大動脈壁より薄く柔らかい。これは心臓の右心室の壁が左心室の壁に比べて弱く薄いのに比例している。

同じように、肺は筋肉その他よりも柔らかく構造が粗である。同様に肺動脈の枝の壁は大動脈の枝の壁とは違う。このことは一般に成立する。筋肉質で力の強い人ほど、筋肉は堅い。心臓は強く、厚く、密で、筋ばっており、心房と動脈は厚く、目が詰んでいる。さらに、心室の内面が滑らかで、絨毛や弁が無く、壁が薄い動物では、動脈壁の厚さは静脈とほとんど異ならない。

さらに、肺動脈と肺静脈が大きい(肺静脈の容量は大腿の血管や頸静脈より大きい)のは何故であろうか。また、経験や観察でわかるように肺の血管が大量の血液を入れているのは何故であろうか。ここでアリストテレスの勧告に従って、瀉血によって死亡した動物を観察して、誤りでないことがわかった。心臓と肺は、血液の源泉であり、倉庫であり、完成のための工場である。

同様に、解剖にさいして肺静脈と左心室は、肺動脈と右心室に充満している黒く凝固した血液で、充満していることを見いだした。このことは血液が肺を通して両心室のあいだを通過していることによって説明される。したがって、結局、肺動脈は動脈の構造を持ち、肺静脈は静脈の構造を持つ。一般の常識とは違って、機能、構成その他の点で、前者は動脈で後者は静脈である。肺動脈が大きな開口を持つ理由は、肺の栄養に必要な以上に大量の血液を運ばなければならないからである。

もし正しく評価するなれば、解剖にさいしてみたこれらすべての現象やその他のことは、この本で論じてきた真理を明らかに示し立証するものであるだけでなく、これまで言われてきた俗説と対立するものである。何故かなれば、すべてのことがどのような目的で造られ、準備されているかを、他のいかなる方法によっても、説明することが困難だからである。