結紮についても、何のために血液を引き寄せるかが明らかになる。熱、痛、吸引、今まで考えられているその他の原因によるものではない。医術における結紮の利用と効用、すなわち出血を止めたり促進するのを説明することができるし、どのようにして末梢の壊死や広範な壊疽を引き起こすか、どのようにして動物の去勢、疣や肉腫の除去に役立つかを、説明することができる。
しかし、結紮によるこれらの効果の原因と道理をほとんど誰も正しく評価し理解していない。ほとんどすべての人々は古代の著者を信じて病気の治療に結紮を推奨しているものの、わずかの人々が適当な利用を理解し、治療に実際に役立てているに過ぎない。
結紮には圧迫が強度のものと中程度のものとがある。血管が拍動するのを感じないほど強く圧迫するのを、私は強度または完全な結紮と名付ける。このような結紮は四肢切断などで血液の流れを止めるのに使う。これはまた動物の去勢とか腫瘍を除去するのに用いる。このような場合には、結紮によって栄養や熱の流入が止まり、睾丸や大きな腫瘍が小さくなり、壊死におちいり、脱落する。
中程度の結紮とは、四肢の全周をかたく圧迫するが、痛みは無く、結紮部位より末梢の動脈にある程度の拍動を許されるものを言う。このような結紮は瀉血で用いられる。このばあい、肘の上の縛りひもはそれほど固くなく手首の動脈の拍動を指で感じることができる。
人間の腕で実験することにしよう。瀉血のときのように縛りひもを使っても腕を手で軽くつかんでもよい。この実験に適する人は痩せていて静脈が太く、しかも運動の後で体が暖かく拍動が強く血液が四肢に大量にあるのがよく、このようだとすべてがはっきりと見られる。
このような状態で末梢を結紮し、我慢できる限り強く圧迫すると、結紮部位より末梢すなわち手首などで動脈は拍動しない。これと同時に結紮部位のすぐ上で動脈は膨張のたびに高まり、激しく脈打ち、あたかも潮が流れの障害物を打ち破り打ち勝つようにその近くで高まる。一言で言うと動脈は異常に充満している。このような状態で手は自然の色と外見を保っている。時間がたつと温度は少し下がるが、何も入り込んだりしない。
巻き布をしばらくそのままにしてから、少しゆるめて瀉血につかう中程度の結紮にする。そうすると手と腕はすぐに暗色になり大きくなる。静脈は膨れ上がり節くれだつ。動脈が10から12拍動すると、手はふくれあがる。すなわち、中程度の結紮によって、痛みや熱や真空の恐れその他に前に述べた原因無しに、手に血液が押し込まれ、腫れ上がる。
もしも縛り紐をゆるめる瞬間に、紐の下で拍動している動脈に指を当てると、指の下で血液が滑って動くかのように感ずる。同じように実験対象となっている人もまた暖かさや突然の血管に沿う血液の流れ、さらにそれが手全体に広がるのを感ずる。同時に手は熱くなり、腫れ上がるように感じる。
前に述べたように、強い結紮において巻き布より中枢の動脈は膨れ上がり拍動するが、末梢はこのようなことはない。中等度の強さの結紮では、これと逆に、紐の上ではなく下で、静脈が膨れて太くなるが、動脈は縮む。極端に強い圧力を加えると、紐より末梢の静脈も、腕の上部の静脈も膨れ上がらない。
これらの事実から、動脈を経て末梢に血液が入ることを、注意深い観察者は理解することができる。もしも効果的に圧迫すると血液は末端には全く入らない。手の色は変わらず、何も流れ込まない。まったく膨れ上がらない。しかし、もしも圧力を下げると、採血のときの結紮のように、血液は瞬間的に強い勢いで入り、手は膨れ上がり始める。中等度の結紮のときに動脈は拍動して血液が流れるが、強度の結紮のときに血液は拍動せず何も送り出さず、結紮部位の上部だけが膨れ上がる。静脈が再び圧迫されると、静脈を通して何も流れない。これを示していることは、結紮の下部は上部より膨れ、腕に巻き布が無いときよりも膨れている。
したがって、結紮はそれより上部へ血液の戻るのを妨げ、それより下部を膨張した状態に保つ。しかし、動脈は圧力を加えても、心臓の力と衝動によって、体内から結紮の先まで血液を送る。ここに強い結紮と中程度の結紮の違いがある。強い結紮では静脈の流れだけでなく動脈による血液の流れを妨げる。中程度の結紮では、それより末梢の脈拍の力を妨げることはなく血液を四肢に送るが、静脈を圧迫して血液が静脈を経て戻るのを大きくまたは完全に妨げる。
したがって、中程度の結紮で静脈は膨れ上がり広がり、手全体が血液で充満しているのを見て、これはどこから来たのだろうかが問題となる。結紮より先に蓄積したこの血液は静脈を経たものか、動脈を経たものか、または隠れた多孔組織を通ったのだろうか。静脈を経て来ることは考えられないし、目に見えない通路であるはずはさらにない。今まで言ってきたように動脈を経て来るより他は考えられない。結紮を取り除かない限り血液は静脈を経て心臓に戻ることはできないので、静脈を経て流れ込むことは考えられない。もしも急速に取り除くと、静脈はペシャンコになり内容を上部に排出する。同時に手はもとの皮膚色になり、腫脹や鬱血は消失する。
さらに、しばらくのあいだ中程度の結紮をして腕が膨れ青黒くなっただけでなく冷たくなっている人は、巻き布を急にほどくと、血液が戻る経路にそって肘から脇の下まで冷たいあるものが動くのを感じる。冷たい血液が心臓まで戻るのが、瀉血のときに気を失う原因ではないかと、私は考えている。失神はしばしば強健な人で多くのばあい巻き布を取り去ったときに見られ、俗に血液が回るからと言われている。
さらに、静脈が結紮部位より下部で膨れ上がり詰め込まれ、強い結紮によって緊張が下がっているときに、動脈はほとんど変化していない。このことは血液が動脈から静脈に移行したのであって静脈から動脈に移行したのではない証拠であり、二種類の血管の間に吻合があり、筋または一般に固体の多孔組織を血液が通過することを示している。さらに、肘より上で中程度の結紮をすると、すべての静脈は一緒に膨れ上がることから、静脈同士に連絡のあることが解る。もしも一本の小さい静脈をメスで切開すると、すべての静脈は急速にペシャンコになり、ほとんど同時に出血は止む。
これらの考察から、結紮によって血液を集めることの本質およびおそらく一般に血液の流れを、誰でも理解することができるだろう。たとえば巻き布を肘より上にして静脈を中程度に圧迫すると、血液は逃れることが出来ず、血液は心臓の力によって押し込まれ、それによって静脈は血液で充満して膨れ上がる。熱、疼痛、真空力ではあり得ない。このような場合は一部分だけであり、異常に膨れ上がったり大量の血液が流れ込んだりはしないし、筋肉が傷つけられ血管が破れたりする。熱、疼痛、真空力の影響のようなものは考えられないし、認められない。
その他に、結紮は疼痛、熱、真空力無しに血液を集めることができる。もしも疼痛が原因だったら、腕を肘の上で結ぶことによって、巻き布より下になる手や指が腫れ上がりその静脈が拡張することがあり得ようか。巻き布の圧力は確かに血液が静脈によってそこに達するのを妨げる。それでは結紮より上では、何故に静脈の膨張や充満が見られないし、血液を誘い込み流れ込む症状が見えないのだろうか。血液が大量に力をもって入りはするが出ることはできないのは、巻き布より下、手および指に、血液が異常に集まって膨れ上がる明白な理由である。
アヴィセンナが言っているように、入るのは自由だが出ることが出来ないことによる、著しい過剰がすべての腫脹の原因であろうか?局所の炎症で、腫脹が続くがまだ最盛期ではなく、その部分で拍動が感じられ、とくに急性期で腫脹がふつう急速なときには、同じことが起きているのではないだろうか。しかし、これがすべての原因であるかどうかは、討論を待とう。私自身に起きた例はこの理由によるのであろうか。あるとき馬車から放り出されて前頭部を打ったことがある。このときには、脈拍数20以内の早い時期に、熱も痛みも感じないうちに、鶏卵大の瘤ができた。前頭部には側頭部から動脈が向かっているので、動脈が近く血液が異常な力と速度で打撲部位に集まってきたと思われる。
ここでなぜ我々は瀉血にさいして、静脈穿孔より上の部位で結紮を行い、下の部位で行わないかを理解することができる。もしも血流が上から来るのであって下から来るのでないとしたら、結紮は役に立たないだけでなく、邪魔になるであろう。もしも血液が静脈によって上部から下部に下がるのだったら、血液を十分に瀉血するためには、結紮を穿孔部位より下にすべきであろう。しかし、血液は末梢の動脈から末梢の静脈に流れ込み、末梢の静脈からの血液の戻りが結紮によって妨げられるので、静脈は充満し拡張する。したがって、静脈を突然に穿孔すると、血液を力強く遠くまで放出することができる。しかし、結紮をゆるめて帰り路を開くと、血液はポタポタとしか出なくなる。すべての人が知っているように、静脈切開のときに巻き布を弱くし過ぎたりあまりにも強く縛ると、血液の放出は力がなくなる。その理由は、まりにも弱いと帰り道が充分に閉鎖されないし、強すぎると流入の経路、すなわち動脈が妨げられるからである。
これまで述べてきたことは正しいとしたら、他の点、すなわち心臓を血液が絶えず通過するということも証明しよう。血液は動脈から静脈に流れるのであって、静脈から動脈に流れるのではない。さらに、結紮を行って腕の皮膚静脈を穿刺することによって体内の全血液を流失させることができる。しかもさらに、血液は自由に急速に流れるので、腕の結紮部位より末端部分に穿刺以前からあった血液だけでなく、動脈と静脈の両方の体全体の血液が流出するのを見る。
したがって第一に、血液は衝動によって送られ、結紮の下に圧入することによるものである。血液は力を伴って流失し、この力は心臓の脈拍の力から受け取るものだからであり、血液の力と運動はすべて心臓だけに由来するものだからである。
第二に、流入は心臓から進み、大静脈経由の道で心臓を通る。結紮以下の部位に入るのは動脈経由であって静脈経由ではないし、動脈は血液を心臓の左心室以外から受け取る以外にはあり得ず、静脈から受け取ることはないからである。結紮が充分にされているのでこのように大量の血液が1本の静脈から引き出されることはないし、心臓の拍出力によるのでなければ、このように激しく容易に素早く流出することはあり得ないからである。
すべてのことが上に述べた通りであるなら、血液の量を計算し、循環運動について論ずることできる。誰か瀉血にさいして自由に流出させるようにすると、半時間ほどで血液の大部分は失われて失神と虚脱が起きるであろうし、動脈だけでなく大静脈も空になってしまう。この半時間に失われたと同じ量の血液が、大静脈から心臓を経由して大動脈に移行したと推定することは理にかなっている。さらに、片方の腕で何オンスの血液が流れるか、中程度の結紮で20または30の脈拍でどれほど流れるか、を計算すると、他の腕で同じ時間にどのくらいの血液が流れるか、両側の下肢を通し、首の両側を通し、全身の動脈、静脈を通して、どれ程の血液が流れるかを、推定することができる。
これらはすべて新鮮な血液を供給され、血液は肺と心室を通り、大静脈に由来しなければならない。ここで推定された血液量は摂取された食物から直接に供給され得ないし、その部分の単なる栄養にしては著しく多い。
瀉血をしていて、議論の問題となっている真理が他の方法で確認されることがある。腕を縛り穿刺を行っているときに、恐怖またはその他の理由で失神し、心臓はゆっくりと拍動し、血液は自由に流れず、滴下するようになる。強く結紮によって、血液の流れに大きな抵抗が生じ心臓の力が弱くなり拍出力が低下することによって、結紮の下を血液が流れなくなる。さらに心臓が弱くなり活気が無くなるために、心臓を通して血液が静脈から動脈に充分量を供給しなくなる。同じ理由で、女性の月経や種々の原因による出血が減少する。今や逆の状態が起き、患者は恐怖にうち勝ち、勇気を快復し、脈の強さが増加するので、動脈はより強く拍動し、血液を結紮した部分に送り込むようになる。その結果、血液は静脈の穿刺部位から噴きだし、連続的に流れ出す。
これまで、体の中心部において肺と心臓を通過する血液量、および同じように全身の末端において動脈から静脈へ移行する血液量、について述べてきた。しかし、説明しなければならないことは、血液がどのようにして末端から静脈によって心臓へ還るか、および静脈が末端から中枢へ血液を運ぶ唯一の血管であるのはどのようにしてか、である。
もしもこのような説明ができたら、血液循環についての3つの命題は明瞭、確定的、かつ明らかに真実となり、十分の信用が得られるであろう。説明しなければならないことは、静脈腔にある弁、その役割、感覚で確かめられる実験によって、充分に明らかになるであろう。
学識ある解剖学者で尊敬できる老人であるファブリチオ、および学識あるリオランが考えているように、デュボア(シルヴィウス:1478-1555)は静脈内に膜状の弁があることを述べた人である。この弁は、静脈の内膜がシグマ状(半月状)に盛り上がり離れている、きわめて繊細な部分である。弁と弁の間隔はいろいろで、人により異なる。静脈の側壁に結合しており、静脈の根幹に向かって上向きとなっている。2枚の弁(ふつう2枚からなる)は向かい合い、相互に接触している。したがって、何かが根幹から枝に向かって、すなわち大きい血管から小さい血管に向かって、通ろうとすると、まったく通過できないようにする。先行する弁の凹部の中央は続く弁の凸部に対応するようになっており、等々となっている。
これらの弁の発見者はその用途を正しく理解しなかったし、その後の解剖学者も何も寄与しなかった。血液がその重さで下に流れ落ちるのを防ぐために弁があると言ったら、これは正しい解釈ではない。頚静脈の弁の端は下に向いているので、血液が上に流れるのを妨げている。一言で言うと、弁は決して上を向いているのではなく、常に静脈の根幹、すなわち心臓の方向を向いている。私も他の人々も腎静脈や腸内膜静脈の弁で、端が大静脈や門脈に向いているのを見ている。私も他の人々も腎静脈や腸内膜静脈の弁で、端が大静脈や門脈に向いているのを見ている。
さらに、動脈には弁の無いこと、および直立によって重力の影響があるとは思われないイヌ、ウシなどにおいて、仙骨の発端にある脚静脈の分岐部や腰部に近い静脈の枝に弁のあることを、追加しよう。
ある人々の言うように頚静脈の弁は脳卒中を防ぐためにあるのではない。寝ているときに頭は頸動脈の内容物によって影響されるからである。また弁は血液を分岐路に廻したり、小さな幹静脈や枝に留めて、全部が開いた大きな経路に流れて終わないようにするものでもない。分岐の有るところに多いが、分岐の無いところにもあるからである。体の中央からの血液の流れを遅くするためのものでもない。大きい血管から小さい血管に入ると、大きな流量から分かれ、源泉から遠ざかり、暖かいところから寒いところに行くので、流れは自然に充分に遅くなるからである。
弁は血液が大きな静脈から小さな静脈に流れないためにある。これらを破裂させたり静脈瘤を作らせたりしないためである。血液が中央から末端に進まないで、末端から中央に進ませるためにある。したがって、精巧な弁は正しい方向には容易に開くが、逆の運動は完全に妨止する。もしも何かが逃げる、すなわち一つ上の角(つの)による防止がたとえば角の間隙などにより不完全のばあいには、斜めにある一つ下の弁の凹部によって受け止められ、それ以上進行することはない。
私はこのことを静脈の解剖でよく見てきた。ゾンデを太い静脈から細い枝に入れようとすると、十分に注意しても、弁があるために先まで入れることが出来なかった。ところが、逆に反対の方向、すなわち外側から内側に、細い枝から太い幹に向けては、簡単に入れることが出来た。多くの場所で2枚の弁は一組になっていて、押し上げられると端が接触して一つになる。2枚の適合は正確なので、眼で見ても他の方法でも間隙をみつけることができない。もしもゾンデを末端から中央に向けて入れると、弁は河の水門のように簡単に脇に押されて開く。このような機構は、頭に向かっての上向きにしろ、足に向かっての下向きにしろ、腕に向かうにしろ、心臓および大静脈からの血液は一滴も通ることができない。大きな静脈から小さい静脈への血液の運動は妨げられ、細い枝から大きな枝に向かう運動が促進される。ともかく、自由な開かれた通路である。
しかし、瀉血のときのように肘より上で腕を縛ることによって(図1、A,A)、この事実は一層明らかになる。静脈に沿って、とくに労働者や静脈が太い人で、一種の節と言うか盛り上がり(B,C,D,E,F)を見ることができる。このことは枝の在る所(E,F)だけでなく、無い所(C,D)にも起きる。この節すなわち盛り上がりは弁によるもので外から見ることができる。どれか一つの弁の上流の部分H , O(図2)で血液を押し、指で下に向けてしぼると、上からの血液の流れは見られず、指と弁Oの間の静脈は消えてしまう。しかし弁の上(O,G)の部分は十分に広がって太くなる。血液はこのように押し下げられて静脈は空なる。弁Oの上の太くなった静脈に他の手の指を置いて(図3)、下向けに押し下げても、弁を越えて血液を押し下げることはできない。いくら押す力を強くしても、指と弁の間の静脈はさらに太くなり、弁より下の静脈は相変わらず空である(図3,H,O)。
したがって、静脈の弁の機能は動脈や肺動脈の開口部にある半月弁と同じで、動脈に送り出された血液が逆戻りしないためである。
さらに、腕を前のように縛って静脈が充満し広がっているとしよう。もしも静脈上の一点を指で押し(図4,L)、他の指で次の弁(N)まで血液を上方向にしぼると、静脈のこの部分(L,N)は空になることに気づくであろう。まさしく図2で見たように、血液は逆には流れない。しかし、最初に置いた指(図2のH;図4のL)を取り去ると静脈は末端から充満し、腕は図1のDCのようになる。
静脈の血液は下部すなわち末端から心臓の方向に進む。血管内をこの方向に流れ、逆方向に流れないことは、明らかである。ある部分で弁がこのように正確には作用しなかったり、弁が1枚だけだったりして、中心部からの血液の逆流が起こらないようにできないとしても、多数の弁は明らかにこのようにすることができる。たとえうまく行かない場合でも、それに続く弁が多数あり完全に働くこと、などによって補うことができる。このように、一言で言うと、静脈は心臓に戻る血液の自由で解放された水路であって、心臓からの血液を分配することは出来ないようになっている。
しかし、次のことに気がつく必要がある。腕を縛って静脈が膨れ上がり弁がはっきり見えるようになる。ある弁(図4,L)の上に指を置いて圧迫して、血液が手から心臓方向に流れないようにして、他の手の指で静脈の血液を次の弁(図4,N)の先までしぼり出す。ここで血管は空になる。しかし、Lにある指を放すと、静脈はすぐに下から満ちてくる。指で再び圧迫し、前と同じように血液をしぼり出し、下部の指を放すと、血管は前と同じように太くなる。短時間に、たとえば千回も繰り返すとしよう。
ここでその弁を越えて押し上げた血液の量を計算し、この推測値を千倍すると、静脈のある部分を通過する血液量がわかる。今や貴方は血液が循環し、それがいかに速い運動であるかを確信したと思う。この実験は「自然」にたいする暴力であると言う人があっても、次のことは疑いの余地がない。すなわち、静脈のできるだけ長い部分をとって上と同じような実験を行い、どのように速く血液が上方に流れ、下方から血管が充満してくるかを調べると、同じ結論に達することができる。
ここで、血液の循環についての私の見解を要約して、ひろく一般に知ってもらうことが許されるであろう。
議論と観察のすべては、血液が肺を通り、心室の力によって心臓を通り、体の全体に分布し、そこで静脈と筋の孔に入り、静脈を末端から中心に、小さい静脈から大きな静脈に流れ、そこから大静脈と右心室に放出される、ことを示している。動脈による流出および静脈による還流の量はあまりに多く、食物から吸収されたものでは供給できないし、単に栄養のために必要な量よりもあまりにも多い。次の結論が絶対に必要である。すなわち、動物体の血液は循環させられ終わり無き運動をしていること、これは心臓が脈拍によって行っている作用すなわち機能であること、そしてこれこそ心臓の運動と収縮の唯一無二の目的であること、である。
血液循環が適切で必要なことだという常識的な理由付けをさらに示しても、不遜ではないだろう。
まず第一に、死は熱の不足による腐敗である。すべての生きている物は暖かく、死んでいるものは冷たい。したがって、どこかに熱の場および源泉、熱の家と炉があり、ここで自然を慈しむもの、自然の火の源が蓄えられ保存されている。ここから熱と生命が泉から分配されるように全身に分配されている。これから生命維持に必要なものが引き出される。これに消化と栄養、植物性のエネルギーが依存している。心臓こそこの様な場所であり、生命の中心である。このようなことは誰も否定しないであろう。
したがって、血液は運動を必要とし、まさしく心臓に再び戻るような運動が必要である。アリストテレスが言っているように、源泉から離れて体外に送られ運動しなくなると、血液は凝固するからである。何故かと言うと、運動はあらゆる環境において熱と精気を発生させ、静止はこれらを消失させる。したがって、極端に寒いときや外部で、血液は濃くなり凝固し、死体と同じように精気を失う。そこで、熱と精気および保持に必要なすべてのものを源泉から受け取る必要があり、元に戻ることによって血液は新しくなり復活しなければならない。
寒いときに四肢が冷たくなり、鼻や頬が蒼くなり、下半身に鬱血した血液が青黒くなることを見ている。四肢は同時に不活発になり、したがって殆ど動かなくなり、活気をほとんど失ったように見える。今や血液が新しく導入されて源泉からの熱に触れると、生命の熱と色が戻る。しかし、熱と生命が殆ど無くなった部分がどのようにして取り戻すことができるのであろうか。また、凝固した冷たい血液で満ちている血管が、それらを取り除かないでどうして新鮮な栄養物、すなわち新しくなった血液を、導入することができるのであろうか。
心臓こそが冷え切った血液を生命と熱を元に戻す源泉であって、暖かく精気で満たされた新しい血液は動脈で送り出されるのでない限り、冷やされ弱められた血液を追いやり、すべての小部分が失った熱とほとんど使い尽くされた精気を元に戻すことはできない。
したがって、心臓に傷害が無ければ、体の他の部分の生命と健康は回復するであろう。しかし、心臓が冷やされたり何かの重い病気で打ちひしがれると、動物の全組織は病にかかり破壊されるであろう。アリストテレスが言っているように、源泉である心臓が損なわれると、それ自身とそれに依存するものの両方に役立つものは、心臓以外にはないからである。
ついでに述べておくが、悲しみ、愛、羨み、心配、その他の心の状態に、痩せと消耗、体液の異常や未熟が伴い、それによって各種の病気が起き、人体が使い尽くされる。痛みまたは楽しみ、希望または恐れ、を伴うすべての心の異常は、感情の高ぶりの原因であり、心臓に影響する。これは自然の状態、すなわち体温、脈拍その他に変化を起こし、栄養物に初から影響し、全般的に力を低下させる。四肢や体躯にいろいろな形の不治の病が起きるのは不思議でない。このような状態において、全身は栄養不良と自然熱の不足を来しているからである。
さらに、すべての動物は体内で消化された食物によって生きているので、消化と配分は完全であること必要である。したがって、消化を完成し体内の各部分に配分する場所と受け入れ場所がなければならない。これが心臓である。何故かと言うと一般に使われるために血液を保っているのは心臓だけである。他のすべての臓器は特別な私的な目的に血液を受け取っている。心臓が自分のために冠状動脈静脈で血液を受け取っているのと全く同じである。上に述べたのは心臓が心房や心室に血液を貯蔵していることである。次に心臓は血液を体の幾つかの部分に適当量づつ配分するように位置し作られている唯一の器官である。この配分量はそれぞれへの動脈の大きさによって決定される。心臓は血液の必要に応じる倉庫、言い換えると源泉である。
さらに、血液の配分と運動のためには、衝撃と力、および衝撃と力を与えるものたとえば心臓が必要である。なぜかと言うと、テーブルの上の水滴が集まって大きくなるように、血液は源泉に集まり、似たもの同士で集まり、寒さ、驚き、恐れ、その他によって影響されるからであり、また、四肢の運動および一般に筋肉の圧迫によって、血液は毛細静脈から小さな枝へ、そこから大きな幹へ流れるからである。
したがって、中心から末梢に向かう流れに反対する弁は存在しないにもかかわらず、血液は中心から末梢に向かうよりは、末梢から中心に運動するのが容易である。それ故、源泉を出発して狭く冷たい経路に入り、(末梢から中心への)自発的な方向に逆らって流れるために、血液は力と衝撃が必要である。これこそ心臓であり、心臓以外ではあり得ず、心臓は既に説明したように働く。
まだ問題が残っている。証明されたとみなされている(血液循環の)問題の結果として生じたものである。これはわれわれの信念のために帰納的(a posteriori)に役立てるべきものである。これらは疑わしく曖昧であるが、(血液循環の)問題にとって理由および原因となるものである。
これらは、伝染、傷口感染、蛇や狂犬による咬み傷、性病その他である。最初に感染した場所が正常であるのに、全システムが中毒していることが、しばしば見られる。ときには性病が性器には何の障害もないのに、最初に肩の痛みや頭痛やその他の症状の出現することがある。また、狂犬による傷が治った後で、熱その他の危険な症状の出現することが知られている。したがって、特定の場所における感染が、血液の戻ることによって心臓に運ばれ、心臓によって送られて、全身を感染させる。
三日熱マラリアで病原はまず心臓を襲い続いて心臓と肺に固定する。患者はあえぎ、呼吸困難となり、運動が不能になる。これは生命成分が押さえつけられ、血液は肺に鬱血し、濃くなるからである。血液は肺を通過できなくなる。(私は三日熱発作の初期に死んだ人を解剖したことがある。)このとき、脈拍は常に速く、小さく、しばしば不整脈となる。しかし熱が増加すると、症状は収まってくる。通路が開かれ、通過し、全身の体温が上がり、脈拍は満ちて強くなる。熱発作が完成すると、心臓に生じた異常な熱は次に動脈を経て病原物質と一緒に全身に送り出される。このようにして、自然によって克服され消失させられる。
さらに外用薬が内服薬と同じように有効であることを知っている。これによって我々が論議している問題が確認される。コロチントやアロエは下痢を起こし、カンタリスは利尿作用があり、足の裏にニンニクを塗ると去痰力があり、強心剤は力を与える、などの無数野例をあげることができる。したがって、静脈は外用したものを開口から吸収し血液とともに運ぶと言っても、理屈に合わないことではないであろう。
これは腸間膜静脈が、腸から乳糜を血液とともに肝臓に運ぶ、と言うのと同様である。なんとなれば、腹部動脈および上下の腸間膜動脈を通って腸間膜に入った血液は腸に進み静脈に引きつけられた乳糜と一緒に、そこから数多くの分枝によって肝臓の門脈に戻り、大静脈に入る。これらの静脈の血液は他の静脈と色や粘性は同じであり、これまで真理と言われてきたこととは異なる。
実際、われわれは毛細管において乳糜は上方へ血液は下方へというような、二つの逆の運動が起きていると考えることはできない。このようなことはまず起きることはないし、まったく不可能と考えなければならない。物事は自然の完全な摂理によっているのではないだろうか。等量づつ、乳糜が血液と混じり、粗製のものが精製されたものと混じると、結果は調理(concoction)、変成、血液生成ではない。それぞれが活性と不活性であるか、混合物であるか、または二つの中間物質である。これは葡萄酒を水やシロップと混ぜたときと同じである。非常に少量の乳糜を大量の循環血液と混ぜると、乳糜の割合は問題とならない。1滴の水を1樽の葡萄酒に混ぜたり、逆の割合のときに、アリストテレスが言っているのと同じである。全体は混合物ではなく、葡萄酒または水である。
動物の腸間膜静脈には糜汁または乳糜と血液の混合物または単品が有るのではなく、血液だけが存在する。その色や粘性その他の性質は一般の血液と同じである。しかし、気がつかない程度に少量ではあるが乳糜または不完全消化物が血液に混じっているので、自然は肝臓を中間に置いている。肝臓の曲がりくねった経路で血液は遅くなりさらに変化を受け、未熟で粗な状態で心臓に達して生命物質を傷害することがないようにしている。
したがって、胎児では肝臓を必要とはせず、臍静脈は門脈に存在する孔または吻合を通る。胎児の腸からの血液は肝臓を通過することはなく、上記の臍静脈を経て、胎盤からの自然血液と混じって、直接に心臓に流れ込む。したがって、胎児の発生において、肝臓はもっとも遅くできる臓器である。胎児で四肢が出来上がり、生殖器すらできているのに、肝臓はほとんど痕跡すらない。実際、静脈以外は心臓もふくめてすべての部分が白くて赤い色が無いときに、肝臓で見るのは血管にある血液だけである。これはあたかも挫傷または血管損傷が起きているように見える。
しかし、卵がかえるときには2本の臍血管が見られる。一本は卵白から肝臓を通過して心臓に達している。もう1本は卵黄からで、門脈に終わっている。雛は完全に卵白によって作られ栄養を補給される。しかし、完成後および殻から出た後では、卵黄によって養われるのであろう。生まれた後でも雛の腹部には卵黄が見つかる。卵黄は他の動物の乳に相当する。
しかし、これらのことは「胎児形成についての観察」で述べるのが適当であろう。そこでは次にあげることなど多くの問題を論ずることになる。すなわち、ある部分が最初に作られ完成され、ある部分が最後になるのは何故か?幾つかの部分のうちでどれが他の原因になるか?さらに心臓に特有な問題もある。たとえばアリストテレスが書いているように、他の部分に先がけて心臓が形成され、生命をもち、動き、感覚をもつ、のは何故か?また、血液が他に先がけるのは何故か?どのようにして血液が生命物質と動物物質を持つようになり、動き回る傾向をもち、あちらこちらに送られ、心臓に至るのだろうか?同様に、脈拍を考えると、ある種の脈は死の兆候で、他のものは回復の兆候なのだろうか?すべての種類の脈のうちで何がそれぞれの原因および兆候であろうか?同様に分利や自然治癒の理由を考えなければならない。栄養および栄養の配分、および種々の排出についても考えなければならない。
最後に医学、生理学、病理学、症候学、治療学を考え、我々が幾つの問題に答えることができ、幾つの疑問に答えられ、我々が主張している真理、すなわち我々が照らした光、によって幾つの曖昧な問題が解決されるかを考察してみよう。私がこれまで進み広範囲に述べてきたこの領域はあまりにも広く、意に反して厚い本になるだけでなく、一生涯をかけても完成させることは出来ないであろう。
したがって、ここでは次の章で、心臓および動脈の解剖にさいして気がついたそれらの効用と原因についてを述べるに止めよう。私が論じている真理から光を受け、真理をさらに明白にした多くの事柄に次章で出会うことになるであろう。そして、実際にこの真理を確認し、主として解剖学的な論点から明らかにしよう。
論文「脾臓の役割についての観察」で述べるべきではあるが、ついでにここで述べても不適当ではないであろう。膵臓を通過する脾静脈およびその上部から、冠状、胃、胃大腸膜の静脈が分かれ、すべて多数の枝となって胃に分布する。これは腸間膜の血管が腸に分布するのと同様である。同様に、脾静脈の下部は結腸および直腸の後ろを通って痔静脈に至る。
これらの静脈によって戻る血液は未熟な消化汁を運んでいる。一つは胃からのもので希薄でまだ完全に乳糜化していない。もう一つは濃厚で土のようで大便由来のように見えるものである。これら二つは脾静脈に集まり、逆の性質をもつものが混じり合う。自然はこのように完全に逆の性質をもつために消化(coction)され難い2種類の消化汁を混ぜ合わせ、大量(脾動脈の大きさを考えると大量と考えられる)の暖かい血液で希釈し、高度に前処理された状態で肝臓の入り口に運ぶ。この両方の汁の欠点は静脈の配置によって追加し補われる。
すべての動物で心臓がはっきりと独立なものであるわけではない。ある種の動物たとえば植物性動物は心臓を持たない。これらの動物は冷い種類で、大きな塊となり、柔らかな組織からなり、均一であったり、構造が簡単だったりする。例をあげると、地虫、ミミズ、その他腐敗物から発生するものではっきりした形を保たないもの、である。これらは心臓を持たない。栄養を体の末端に送る必要が無いからである。体は融合しており均一で手足を持たない。したがって全身の収縮と弛緩によって食物を取り込み、排泄し、動かし、取り除く。
カキ、貝類、カイメン類や植物性動物は心臓を持たない。全身が心臓として使われ、動物全体が心臓であるからである。昆虫をふくめて多数の動物は小さいので心臓をはっきりと見ることはできない。しかし、ミツバチ、ハエ、クマバチその他で、拡大鏡を使って何かが拍動しているのが見える。シラミで同じものが見えるようである。透明なので同じ拡大鏡を使うと食べ物が黒い点のように腸を通っているのを見ることができるようである。
血液が蒼白色で冷たい種類の動物、たとえばカタツムリ、マキガイ、エビ、貝類などで拍動しているものがある。これらは一種の袋、心臓の無い心房のようなもので、実際ゆっくりと拍動し、暖かい季節でなければ観察することができない。これらの動物では、種々の臓器があることか、物質の密度によるのか、栄養液を配布するのに衝撃を必要とするので、拍動しなければならない。しかし拍動の数は少なく、寒いときにはまったく無いときもある。これは次のような曖昧な性質に適したものである。あるときは生きているように見え、あるときは死んでいるように。あるときは動物のように活発で、あるときは植物のように見える。
このことは冬には隠れていて、死んでいるようにし、一種の植物としての存在をする昆虫にも成立する。赤い血液を持つ動物、たとえばカエル、カメ、ヘビ、ツバメにも成立するかどうかは疑いがある。赤い血液をもつ大きな温血動物では栄養液を推進する必要があり、おそらくかなりの力を持っている。サカナ、ヘビ、トカゲ、カメ、カエルその他の類には、心房と心室の両方をもつ心臓が存在する。したがって、血液のある動物には心臓を持たないものはないし、心臓の推進力によって栄養液を遠くに力強く速く送ることができる。これは下等動物の心房のようにただ撹拌しているのではない、とアリストテレスが観察したのは完全に正しい。さらに大きく、温血で、もっと完全な動物では、暖かく精気に富む血液を大量にあり、大きく充実した体を持っているので、栄養液を強く速く推進させるたみに、大きく強く筋肉性の心臓を必要とする。さらにもっと完全な動物は、食物を完全に消化し最高の完成をしなければならないので、もっと完全な栄養と大量の自然の熱を必要とする。そのために、肺と第二の心室を必要とし、栄養液はここを通過しなければならない。
したがって、肺を持つ動物は心臓に2つの心室を持つ。一つは右心室でもう一つは左心室である。右心室のあるときは必ず左心室がある。しかし逆は真ではない。左心室はあるが右心室の無いことがある。ここで左心室と呼んでいるのは位置から言うのではなく、肺だけに血液を送るのではなく、全身に血液を送るという機能で呼んでいる。
したがって、左心室は心臓の主要部分である。これは中央に位置し、強く標識され、注意深く作られている。心臓は左心室のために作られているようで、右心室は従属している。右心室は心尖まで達せず、壁は3分の1ていどの厚さなのでそのていどの力しか無く、アリストテレスが言ったように、ある意味で左の付属物である。しかし、左心室に物質を供給するだけでなく肺に栄養物を与えているので、容積は大きい。
しかしながら注意すべきこととして、胎児ではこのような2つの心室の間の違いは見られない。双子の木の実のように多くの点でほとんど等しく、右心の心尖は左の心尖に達していて、心臓は頂点が2つある円錐のように見える。これは何故かと言うと、胎児では前にも述べたように、血液は右心室から左心室へ肺を通らずに、大静脈から大動脈に直接に卵円孔と動脈管を流れて、全身に配分されるからである。
したがって、両方の心室は同じ役割を持っているので、構造も同じである。肺が使われるようになって、上に述べた2つの経路が閉じると、左右の心室のあいだの力その他の差が明白になる。このようになると、右心室は血液を肺に送るだけであるが、左心室は全身に血液を送らなければならない。
さらに心臓の中には数多くの支柱がある。筋肉の柱や繊維のバンドの形をしており、ありストテレスが「神経」と呼んだものである。これらはいろいろ張り渡されており、はっきりしているものもあるし、壁や隔壁にある数多くの孔やくぼみからなる溝の中にある。それらは一種の小さな筋で、心臓に追加しているもので、より強力な完全な収縮を行い、血液を完全に送り出すのを助けている。これらは船の綱具の良くできた設備と同じであり、心臓収縮にあたって支柱となり、心室から血液を送り出すのに有効である。
ある動物では他よりも明らかでないことで説明される。それらは左心室では右心室より数が多く強いことに示される。ある種の動物では左心室にはあるが、右心室には存在しない。ヒトでは右心室にくらべて左心室に多く、心房より心室に多い。ときには心房にはまったく存在しない。大きな筋肉質の農夫には多いが、痩せた体質の婦人には少ない。
心室の内側が平滑で筋肉や筋性の束または溝を持たない動物、たとえばウズラやニワトリのような小さな鳥、ヘビ、カエル、カメ、大部分の魚、では繊維の束が無く、心室に三尖弁が無い。
ある動物では右心室の内部が平滑であるが、左心室には繊維の束がある。これらは大きな音を出し大量の空気を必要とする動物である。これについては、「呼吸論」を参照されたい。
前に述べたように、心室は拍動し、収縮し、心室に血液を送る。したがって、心室があれば心房は必要である。一般に信じられているように血液の源泉すなわち倉庫であるだけではない。もしも単なる倉庫だけだったら拍動に何の意味があるだろうか。
心房、とくに右心房は、血液の最初の「動かし手」である。これはすでに述べたように「最初に生まれ、最後に死ぬ」ものである。したがって血液を心室に送る役に立っている。絶えず収縮し、すでに動いている血液を容易に強く送り出している。これは丁度、ボールプレーヤが球をただ投げるよりは、リバウンドしたものを打つ方が、強く遠くに打つことができるのと同じである。さらに一般の常識とは違って、スポンジが最初に圧縮されてもとの条件に戻るときは別として、心臓その他は拡張することによって何かを内腔に引き寄せることはできない。
動物では局所的な運動は、ある部分の収縮から始まりそれを出発点とする。前に述べたように心房の収縮によって血液は心室に送られ、そこから心室の収縮によって送り出され分配される。局所的な運動に関連して、(アリストテレスのいわゆる)運動精気を持っているすべての直接の運動器官はまさしく収縮装置である。ここで神経(nevron)という言葉は「刺激を受け取り収縮する」から来ている。もしも私の観察から運動器官について述べることができるとしたら、アリストテレスが筋肉についていかに詳しかったかを明らかすることができるであろう。彼は動物によるすべての運動を神経または収縮装置によるとし、心臓のこれらの小さい束を神経と呼んだ。
我々が持っている問題、すなわち心房のもつ心室を充満させる役割、に進もう。心臓が固く緻密であるほど、その壁は厚く、心房は心室を充満させるために強く筋肉質である。逆も真である。このことは事実である。魚のように心房の代わりに血赤色の膀胱、すなわち血液を入れた薄い膜からなることがある。ここで心房の代わりをするものは薄く大きいので、心臓の上にぶらさがるというか浮いているように見える。コイその他の魚のように袋にもっと肉があると、肺にかなりよく似たものになる。
体格ががっしりしていてどっしりした男子の右心房は強く内面に束や種々の繊維が絡み合っているので、他の人の心室と同じ強さのように見える。このように人によって大きな違いのあることに私は驚いている。しかし、胎児で心房は不釣り合いに大きいことが観察される。これは心臓が現れる前から、または心臓があっても充分に機能をしていない時から心房があり、前にも述べたように心臓全体の役をしていたからである。
胎児の形成で見たことは、前に述べたように(アリストテレスは孵化卵で研究したように)この問題の解決に大きく寄与する。胎児がまだ柔らかいムシのような時、よく言われるように乳の中にいる時)には、血液の点、すなわち臍静脈の広がった場所として拍動している小嚢が見えるだけである。後になって胎児の外形がはっきりして体のようになると、小嚢は肉がつき丈夫になり、場所が変わり、心房となる。この上に心臓が芽を出すが、まだ機能を果たさない。胎児がさらに発達して骨がはっきりし運動できるようになると、拍動する心臓を持つようになる。そうすると、前に述べたように両方の心室によって大静脈から動脈に血液を送るようになる。
自然は完全であり神聖であるので、無駄なことはしない。必要の無いときに心臓を与えないし、機能が必要になる前に作ることはない。しかし、すべての動物は発生において共通の段階(卵、ムシ、胎児)を通り、完成する。これらの点は胎児の形成についての他の論文で、数多くの観察をもって確認することにしよう。
最後に、ヒポクラテスがその著「心臓」において心臓を筋肉と呼んだのは理由がある。筋肉と心臓の作用は同じである。収縮して何ものかを動かす。ここでは血液の推進力である。
さらに、一般に筋肉の場合と同じように、心臓の作用と役割を、繊維の並びと一般構造から論ずることができる。すべての解剖学者はガレノスに賛成して、心臓は繊維が互いにまっすぐ、斜め、横に走っていることを認めている。しかし煮た心臓では繊維の並びは異なっている。側壁と隔壁の繊維は括約筋のように輪状である。柱のものは縦軸に延び、長軸に沿って斜めである。したがって、すべての繊維が同時に収縮すると、心尖は柱によって底部に引き寄せられ、壁は輪状に引きつけられて球状になる。一言で言うと、収縮して心室は狭くなる。したがって、心臓の作用は収縮そのものであり、役割は血液を動脈に送ることである。
アリストテレスが言っている心臓の重要性や問いかけについて我々は同意せざるを得ない。問いかけとは、脳から知覚や運動を、肝臓から血液を、受け取っているか、心臓が静脈や血液の源泉であるかどうか、である。これらの問題提起に賛成する人は、主な論点を見落とすか正しく理解していない。主な論点とは、心臓は存在する最初の部分であることと、脳や肝臓が作られ、はっきり出現し、少なくとも機能を果たす、よりも以前に、その中に血液、生命、感覚、運動を持つことである。心臓は体より前に、一種の内部の生物のように、運動する器官として出来上がっている。最初に作られるものとして、自然は心臓に仕事場および住所として全動物体を作り上げ、栄養を与え、保存し、完成させるように命令している。国家の王が最高の権威を持ち国を治めているのと同じように、心臓はすべての力の源であり基礎であり、動物体のすべての力はこれに依存している。
動脈に関連する多くのことは、この真理をさらに説明し確証する。肺静脈は(著者は静脈性動脈として動脈の一つに数えている)何故に拍動しないのだろうか?肺動脈(著者によると動脈性静脈)が拍動するのは何故か?動脈の拍動は血液の衝動力によるからである。動脈壁は静脈壁と厚さや丈夫さが大きく違うのは何故か?心臓の衝動や血液の流れによるショックを防ぐためである。したがって、完全なる自然は無駄なことをせず、すべての状態において満足させるものであるので、心臓に近ければ近いほど動脈は静脈と構造が大きく異なる。ここではより強くより靱帯類似である。これに対して手や足や脳や腸管膜や睾丸のような体の末梢では、動脈と静脈は似ていて目で区別できないほどである。
これは次のような理由によるものである。心臓から遠ければ遠いほど力が弱まるので、心臓からの拍動が弱いからである。これに加えて、幹線および枝を満たすために必要な心臓の衝動力は脇にそらされ分けられ枝で減少し、その結果として動脈の毛細管部分は静脈と違わないようになる。これは構造によると言うよりは機能に基づくものである。これらは心拍がふだんより激しいときを除くか、または小血管が他より広がっている場合を除いて、拍動を示さない。
歯や炎症腫脹や指に脈拍を感ずるときがある。別のときにはそれをまったく感じない。このような簡単な症状によって、ふだん頻脈の若者で発熱があるかどうかを確かめることができる。同様に若い敏感な人で指を圧迫することによって、発熱中の頻脈を知ることができる。一方、失神、ヒステリー、衰弱状態、瀕死状態などで心拍が弱いときには、指だけではなく手首やこめかみですら脈を感ずることができない。
四肢の切断や腫瘍の除去や傷で、出血が激しいのは動脈からであることに、外科医は注意しなければならない。しかし常に噴出するとは限らない。小動脈は必ずしも脈動するとは限らないからである。とくに結紮しているときには。
同じ理由で、肺動脈は動脈の構造を持っているが、大動脈のように静脈と厚さが大きく異なっていない。肺動脈が右心室からの衝動力を受けるよりも、大動脈は左心室からの衝動力が強く、肺動脈の壁は大動脈壁より薄く柔らかい。これは心臓の右心室の壁が左心室の壁に比べて弱く薄いのに比例している。
同じように、肺は筋肉その他よりも柔らかく構造が粗である。同様に肺動脈の枝の壁は大動脈の枝の壁とは違う。このことは一般に成立する。筋肉質で力の強い人ほど、筋肉は堅い。心臓は強く、厚く、密で、筋ばっており、心房と動脈は厚く、目が詰んでいる。さらに、心室の内面が滑らかで、絨毛や弁が無く、壁が薄い動物では、動脈壁の厚さは静脈とほとんど異ならない。
さらに、肺動脈と肺静脈が大きい(肺静脈の容量は大腿の血管や頸静脈より大きい)のは何故であろうか。また、経験や観察でわかるように肺の血管が大量の血液を入れているのは何故であろうか。ここでアリストテレスの勧告に従って、瀉血によって死亡した動物を観察して、誤りでないことがわかった。心臓と肺は、血液の源泉であり、倉庫であり、完成のための工場である。
同様に、解剖にさいして肺静脈と左心室は、肺動脈と右心室に充満している黒く凝固した血液で、充満していることを見いだした。このことは血液が肺を通して両心室のあいだを通過していることによって説明される。したがって、結局、肺動脈は動脈の構造を持ち、肺静脈は静脈の構造を持つ。一般の常識とは違って、機能、構成その他の点で、前者は動脈で後者は静脈である。肺動脈が大きな開口を持つ理由は、肺の栄養に必要な以上に大量の血液を運ばなければならないからである。
もし正しく評価するなれば、解剖にさいしてみたこれらすべての現象やその他のことは、この本で論じてきた真理を明らかに示し立証するものであるだけでなく、これまで言われてきた俗説と対立するものである。何故かなれば、すべてのことがどのような目的で造られ、準備されているかを、他のいかなる方法によっても、説明することが困難だからである。